ユング心理学では、女性像を魂であると考えているふしがある。animaを魂と結びつけて考えているようである。しかし、心の中の女性像は魂ではない(「心の中の女性像」を参照)。心の中の女性像は、幼い頃からの経験が蓄積され、消化されて形成されたものである。集合的無意識などという訳の分からない妄想体系を構築するから、いかれた集団になってしまったのだ。集合的無意識などというものは絶対にありえないことを、理論的に証明することができる。ユング心理学では、魂の所在地を集合的無意識と考えている。
ユング心理学における集合的無意識は、絶対に変化してはならぬものである。それは単純に考えても、容易に理解できるだろう。もしも集合的無意識が変化するとしたならば、それはもはや集合的無意識と呼べるような代物ではないのである。Aさんの集合的無意識とBさんの集合的無意識とが違うものであったら、そんな集合的無意識なんかは、まやかしである。Aさんの集合的無意識とBさんの集合的無意識とは、必ず同じものでなくてはならない。
ところが、集合的無意識は絶対に変化しないとすると、実に奇妙なことになってしまうのである。進化論の立場から考えてみよう。そもそも人類の集合的無意識なるものは、いつ形成されたのか。サルから進化して、ヒトになった時か。人類がある日、ヒトになった。その日に突如として集合的無意識なるものが形成されたのか。そんな馬鹿な話を誰が信じよう。これは絶対に、人類がサルであった頃から、集合的無意識には連続性があって、人類と同じものがサルの心の中に存在していたと考えなければならない。そうすると、どんどん遡っていくと、アメーバのような原生動物にも集合的無意識が存するということになってしまうのである。しかも原生動物の集合的無意識も、人類のそれと同様、複雑で高度の内容を持ち、アメーバの夢の中には元型としての影やアニマやアニムスや老賢者が現れてくるということになる。このようなことを、誰が信じようか。
生物種が違えば集合的無意識も違うのだとしても、それは進化の過程において集合的無意識が変化することを意味している。集合的無意識が変化すれば、もはや集合的無意識と呼べる代物ではない。集合的無意識が恒久的に不変のものであるとすると、地球上のすべての生き物の集合的無意識は同じであるという奇妙なことになってしまう。
それでは進化論の立場を捨ててみよう。進化論は、キリスト教的世界観に対するアンチ・テーゼとして主張されたものである。そこで、キリスト教的世界観に立脚すると、神が世界を創造し、人間を創造したときに、集合的無意識なるものを人間に賦与したことになる。ところが、ユング心理学には神の概念がないのである。あるのは、神より上の概念なのである。それは、まさに集合的無意識や自我の領域の中心点である。そうすると、何が何だか分からなくなってきた。やはりここは、集合的無意識などという訳の分からないものは、さっさと消えてもらおう。
集合的無意識は、どこにもない。魂の存する場所でもない。
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