2014年8月24日日曜日

引き継ぎます

 このサイトを、次のURLに引き継ぎます。
「真幸くあらばまたかへり見む」
http://ameblo.jp/dwuu/

 森山梧郎は死んだわけではありませんが、ひとだび「GOOD BY」と言
った以上は、このサイトに関わるわけにはいきません。ただ、危険が去った
わけではありません。
                                                                     Naoki Tago

2014年5月28日水曜日

GOOD BY

I will probably be killed.

日本国民の皆さんへ、そして世界中の皆さんへ

 どうか、 Jungian やその信奉者たちを社会から追放していただきたい。彼らは、自分さえよければそれでよいと考えています。人を踏み台にして、平然としています。まさに社会の害悪です。悪魔からの賜物によって、“個性化”を果たしたからです。

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 愛は生き物である。養い育まなければ、やがて枯死するであろう。流動的でか弱いものなのである。
 ありもしない集合的無意識が指し示してくれる愛の対象を絶対的なものと看做すことによって、逃れ得ない陥穽に嵌り込むこととなる。ユング心理学が考えている愛とは、あまりにも即物的である。命がない。そんなものが、愛であるはずがなかろう。
 ある有名な女性歌手が、「やっと会えたね」という殺し文句で手に入れたと信じていた愛が、やがては脆くも潰え去っていくのも仕方がないのかもしれない。赤い糸などあるはずがないのだ。愛とは、現にここにあるものではなく、日々、刻々と変化するものなのである。
 愛を即物的なものと捉え、絶対的な愛が存在すると盲信することによって、ユング心理学は人間離れのしたものとなった。愛とは無縁の心理学になった。

2014年5月24日土曜日

各出版社・新聞社の皆さんへ

 次のメールを各大学の関係者の皆様方にお送りしています。どうか、御一読願います。

(以下、各大学に送っているメール)

「各大学関係者の皆さんへ」(201453日付け)と同文。

(以上、各大学に送っているメール)

【出版社の場合】 
 どうか、ユング派やユング心理学の信奉者が著した書籍を出版されないよう、お願いいたします。

【新聞社の場合】

 どうか、ユング派やユング心理学の信奉者が筆者である記事を掲載されないよう、お願いいたします。

2014年5月7日水曜日

幻の要望書

 文部科学省初等中等教育局教育課程課に要望書を提出しようとしたが、受け付けてくれなかった。一体どこを向いて仕事をしているのか。国民の要望は、自分達に都合のよいものは、にこにこと笑って受け付け、耳障りの悪いものは冷たく突っぱねるのか。給料を出しているのは誰だと思っているのか。自分達を、全知全能の神だとでも考えているのか。仕方がないので、要望書をこのサイトにあげておく。文部科学省の担当者も、このサイトを閲覧しているかもしれないからである。

 次のメールを各大学の関係者の皆様方にお送りしています。どうか、御一読願います。

(以下、各大学に送っているメール)

「各大学関係者の皆さんへ」(2014年5月3日付け)と同文。

(以上、各大学に送っているメール)

 文部科学省が、不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄に、日本の子ども全員に配布される道徳の副教材「心のノート」を作成させたことは、遺憾ながら、過ちであったと言わざるをえません。「心のノート」作成当時の遠山敦子文相と小泉純一郎首相は、国家と国民に対して万死に値する罪をなしたのです。しかも、芸術や文化の門外漢でありながら偉そうに訳の分からない教訓を垂れている河合隼雄を文化庁長官に、わざわざ民間から起用したことも、重大な過誤でしょう。国民に、芸術や文化に関して誤った観念を植え付ける基になりました。
 不道徳で非人間的な河合隼雄が作成した「心のノート」の改訂版、改め「私たちの道徳」をこの4月から学校および生徒に配布しておられますが、これも残念ながら過ちであると言わざるをえません。恰も、いんちき宗教(悪魔崇拝)を国教化したかのような印象を与えているではありませんか。世界の恥晒しです。やはり過ちは、勇気をもって取り消していただきたいと存じます。過ちを改むるに吝かであってはなりません。役人が全知全能でないことぐらいは国民の誰もが知っています。この場合、日本という国の将来が懸かっているのです。Jungianのように、舞い上がってはならないでしょう。
 各地の大学や研究機関において、河合隼雄の流れを汲むユング派の心理学者・研究者・カウンセラーが多く雇用されております。これは、国家・社会にとって危険なことです。計り知れない悪影響を、彼らユング派は国家・社会に及ぼすことでしょう。各大学や研究機関が、ユング派の心理学者・研究者・カウンセラーを解雇するように指導していただけないでしょうか。大学が、いんちき宗教(悪魔崇拝)であるユング派を雇用することは、教育基本法や学校教育法等の法令の基本精神にに明らかに反していると考えられます。さらに、憲法が保障する国民の教育を受ける権利をも侵害しているでしょう。いんちき宗教を心理学と偽って、大学で教えることは教育権の侵害に当たります。この場合、文部科学省は各大学を指導されてもよろしいのではないでしょうか。 また、小学校・中学校・高等学校の国語の教科書の検定にあたりましては、教材の筆者の中にユング派やユングかぶれ・河合隼雄かぶれのした人物がいないかどうか、よく確認願います。子ども達に、不道徳で冷酷で非人間的な人物が執筆したものを読ませるのは、教育上、好ましくないでしょう。ユング心理学は全人格に関わる心理学です。河合隼雄が不道徳で冷酷で非人間的なら、河合の弟子も又弟子も河合ファンも、すべて不道徳で冷酷で非人間的なのです。

2014年5月3日土曜日

各大学関係者の皆さんへ

 ユング派の、およびユング派にゆかりのある心理学者・研究者・カウンセラーを大学や研究機関から排除してください。
 ユング心理学を基にして、宗教を建学精神においている大学で詐欺犯罪が行われることを、個人的にどのようにお考えでしょうか。ユング派は、宗教を自分よりも一段低いものと看做しています。ユング心理学においては、その“個性化”の最終段階において現れる“マンダラ”(元型としての自己)を、仏や神の上位に位置する概念と考えているわけです。ユング派にとっては、宗教は自分達の婢女にすぎないわけです。しかし、これは幻想にしかすぎません。何故なら自己の元型は、彼らが言うところの集合的無意識に由来するものですが、集合的無意識などというものが実在しないことは簡単に証明できるのです(「心の中の女性像は魂ではない」2013年11月24日付け http://moriyamag.blogspot.com/2013/11/blog-post_8693.html を参照願います)。
 Jungianは、河合隼雄をご覧になれば分かるように、謙虚な振りをして演じることができますが、それが巧妙であればあるほど、内に秘めた権力欲、他者に対する支配欲がすさまじいものであることを物語っています。河合隼雄は、自我が弱い、自我の確立ができていない、主体性・自主性の欠如した人物でした。外国留学中に、スイス人かアメリカ人のJungianにユング心理学を学ぶことを強制されて、このことについて自分の頭で考えることもしないで、Jungianになったようです。このように大人になっていない人物が、どうして権力欲や支配欲の虜になってしまうのでしょうか。また、河合隼雄は不道徳で冷酷で非人間的です。高校在職中に京都大学大学院で心理学を学んだのですが、自分の勉強をするのに自分の金で勉強するのではなく、人を騙して他人の金を使って勉強しました。いじましい人物です。これは詐欺犯罪です。また、日本臨床心理学会で、子どもに対して行った心理検査の非人間的な取り扱いを批判されると、かんかんに怒って学会を飛び出し、心理臨床学会という変な名称の学会を設立しました。邪悪で恐ろしい非人間的な人物です。人間ではないような者が、どうしてすさまじいばかりの権力亡者になり、他人を支配したがるのでしょうか。
 一体、日本はどうなってしまったのでしょうか。不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄に、日本の子ども全員に配布する道徳の副教材「心のノート」を作成させました。これでは日本は、世界中の笑いものになってしまいます。日本は精神的な破綻者ばかりだから、このようないんちき宗教(ユング心理学)に縋るようになってしまったのでしょうか。
 河合隼雄のファンである作家・村上春樹が雑誌等に登場する様子をご覧ください。とても人間の顔をしていないではありませんか。暖かい人間の血が通っているのか疑問に感じてしまうではありませんか。ユング心理学とは、人間性を失わしめる心理学です。Carl Gustav Jungの言うところの「人間性の拡張」とは、「人間性の崩壊」であると断じざるをえません。
 私は、このように非人間的な心理学を拒否しました。A大学大学院に入学してから、入学前には話を聞いたこともなかったユング心理学を学ぶことを強制されました。あの当時、私が基本におきたかったのは、RET(Rational Emotional Therapy日本語訳は“論理療法”)でした。ユング心理学のような、ただ戯言を並べただけの思想(とても学問と呼べたものではありません)を大学で学ぶはずがないではありませんか。私は、ユング心理学は心理学ではないと考えておりますので、当然、拒否しました。すると、指導教授であった文学部のK教授(教育学専攻)に嫌われて、大学にいることができなくなりました。それで退学せざるをえなくなったわけです。宗教を建学の基礎に置くA大学で、心理学を勉強しようと思っていたのに、いんちき宗教(悪魔崇拝)を強制されるとは夢にも思いませんでした。驚天動地の出来事でした。あのとき、K教授と面談中に名前が挙がっていた河合隼雄と氏原寛が、この詐欺犯罪の主犯格だったのではないかと疑っています。河合隼雄がスイス人かアメリカ人のJungianにユング心理学を学ぶことを強制されてユング派になったように、自我のない、主体性も自主性も欠如した、要するに物事を自分の頭で考えて判断することのできない情けないやつらが、他人に対して高圧的・支配的になるということでしょうか。
 彼らJungianは、いわゆる“個性化”(individualization)を果たすことによって、どうした訳かほんわかとしたいい気分になっているようですが、愛も知らず、他者の人格を尊重する傾向は寸分もありません。人当たりの良い態度で人を幻惑しながら、平気で他人の人格を踏みにじります。結局、自分さえ良い気分になっていればよいと考えているのであって、社会に害悪を垂れ流しているにすぎないのです。それなら、どこか絶海の孤島にでも独りで住んで、独りだけでいい気分になって悦に入っていればよさそうなものですが、どうした訳か彼らはそうしません。それどころか河合隼雄を見れば分かるように、すさまじいばかりの権力欲や出世欲を剥き出しにします。実に不思議です。彼らの「ほんわかとしたいい気分」というのは、自己中心的なものにすぎません。他者の人格の尊重という観念を、彼らは持ち合わせていないのです。ただただ妙な信念、いんちき宗教の信者がとらわれるのと同じ誤った危険な信念の虜になっているにすぎないのです。他者を傷つけ、社会に仇をなす。ユング派は、反社会的・反人間的な生き物にすぎません。直ちに社会から駆逐すべきなのです。悪魔が権力を掌握したり、精神界に君臨したりするようなことがあれば、人類は生き残ることができないでしょう。
 河合隼雄は、不道徳で冷酷で非人間的でしたが、その息子の河合俊雄も同様で、親の七光りだけで京都大学教授になった無能な人物です。河合俊雄の著書を、ぱらぱらとめくって拾い読みしただけでも、無能だということは一目瞭然ではありませんか。京都大学のような一流大学が、このような愚かなことをするとはどういうことでしょうか。河合隼雄の弟子の氏原寛は、下手糞な読むに堪えないひどい文章しか書けないのに、心理学関係の著書((氏原寛著『カウンセリングの枠組み』 ミネルヴァ書房刊)で作家になりたいと公言しています。音痴がテノール歌手になりたいと公言しているようなものです。氏原が小説の作品を発表したことは聞いたこともありません。気違いの戯言であったわけです。このようにJungianになると、異常で反社会的になるようです。河合隼雄が人間でないなら、河合の弟子や又弟子も不道徳で冷酷で非人間的です。また逆に遡れば、河合にユング心理学を学ぶことを強制したスイス人かアメリカ人のJungianも非人間的です。勿論、Carl Gustav Jungも不道徳で冷酷で非人間的です。ユング心理学は全人格にかかわる心理学だからです。
 Jungianや、ユングや河合隼雄の信奉者達(例えば、心理臨床学会の会員など)を、どうか大学や研究機関から追放していただけないでしょうか。そのために力を尽くしていただけないでしょうか。
 ユング心理学や河合隼雄の非人間性については、次のURLをご参照願います。
http://moriyamag.blogspot.com/

2014年4月25日金曜日

人間性を失う心理学

 ユング心理学における“個性化”(individualization)とは、一見、強力な治癒をもたらすかに見えるけれども、人間性を失うことである。人間が人間でなくなることである。河合隼雄のファンである作家、村上春樹が雑誌等に登場する様子をご覧いただきたい。人間の顔をしていないではないか。暖かい人間の血が通っているのか疑問に感じてしまうではないか。
 河合隼雄が人間でないなら、河合の弟子も又弟子も河合かぶれ・ユングかぶれした人々も不道徳で冷酷で非人間的である。ユング心理学は、全人格に関わる心理学だからである。また、河合隼雄から逆に遡って見てみれば、河合にユング心理学を学ぶことを強制したアメリカ人かスイス人のJungianも、不道徳で冷酷で非人間的である。自我が確立していない、主体性の欠如した河合は実際に、ユング心理学を学ぶことを強制されたようである。そうすると、これをさらに遡っていけば必然的に、Carl Gustav Jung本人も人間ではないことになる。当然であろう。終日、ひとり薄暗い部屋に閉じ籠って、何やら訳の分からないことをぶつぶつ呟いて、それで精神が健全になるわけがないではないか。
 そうすると、世界中のJungianやそのファンは、 不道徳で冷酷で非人間的であるということになる。世界中の方々に訴える。ぜひとも、こいつらを社会から追放していただきたい。

 「酵素の話」(20131120日付け参照)と「自然療法」(20131122日付け参照)について、若干、手を加えた(青いフォントで表示)。他にも数箇所、付け加えたところもあるが、取り立てて言うべきほどのことでもないので、やめておく。

2014年4月10日木曜日

小中学校の教員の皆さんへ

(このサイトについては、古いほうから順に読んでいただいたほうがよろしいかと思います。)

 道徳の準教科書「私たちの道徳」が、既に学校に届いていると思います。この「私たちの道徳」を、まともに使う必要はありません。直ちに廃棄処分にするなり、焼却処分にするなりしていただいて結構かと存じます。職員室の片隅に山積みにしておかれてもよろしいでしょうが、それではあまりにも目ざわりで仕方がないでしょう。文部科学省は、「私たちの道徳」をいい加減に取り扱っても、まったく活用しなくても、一切、文句を言うことができないのです。勿論、そのような教員を処分する権限もありません。(「八の矢」2013年12月28日付参照)。いくら慌てて名称変更しても、「心のノート」の後継版であることに変わりはありません。ですから、安心して処分してください。
 不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄(「河合隼雄の犯罪」2013年9月1日付、「冷血動物著『心のノート』」2013年12月24日付参照)を、中央教育審議会(中教審)(河合隼雄が最初に審議会の委員になったのは、確か中教審だったと思います。おそらく文部官僚の肝煎りでなったのでしょう)などの各種審議会の委員や座長に委嘱し、文化庁長官に起用し、挙句の果てには、日本の子ども全員に配布される道徳の副教材「心のノート」を作成させました。そして、道徳の副教材「心のノート」の改訂版を、道徳の準教科書「私たちの道徳」に格上げして、この4月から配布することになりました。国費の無駄遣いも甚だしいではありませんか。それどころか、国費の悪用と言ってもよいでしょう。なんという愚かで浅はかな人々でしょうか。日本の将来の国民を怪物だらけにしたい、とでもいうのでしょうか。
 そのような道徳の準教科書「私たちの道徳」を、授業で使用するわけにはいかないでしょう。有害図書でもって、生徒に教えるわけにはいかないでしょう。どうか、堂々と処分してください。それで、文部科学省が文句を言い出したら、それはゴロツキかヤクザの言いがかりみたいなものです。不道徳で冷酷で非人間的な犯罪者・河合隼雄を重用するような役所だからでしょうか。

2014年2月28日金曜日

人間的な交流に背を向ける

人間的な交流に背を向ける

 ユング心理学(Jungian Psychology)は、人と人とのコミュニケーションに背を向ける心理学である。人と人が対面する。その間に、何かが介在する。人と向き合うときに、日本の古代の帝王のように、衝立か御簾を間において対峙しているのである。ここで衝立か御簾とは、集合的無意識とか元型とかと呼ばれる訳の分からないありもしない素っ頓狂な観念である。従って、ユング心理学においては、人と人との触れ合いは皆無である。
 このようなユング派の河合隼雄(Hayao Kawai)が、道徳の副教材「心のノート」を作成した。そのとき、押谷由夫という人物も「心のノート」作成の協力委員のひとりだったと思う。昨年から今年にかけての「心のノート」の改訂版の作成にあたっても、中心的な役割を果たしている。押谷由夫という人物は、河合と考え方が似ている人物なのだろう。河合ファンであるかもしれない。だから、押谷由夫もそうであろうし、「心のノート」も「私たちの道徳」も、その執筆者達はおしなべて河合隼雄的な考え方や生き方をしている人たちなのだろう。
 要するに、「心のノート」も、その後継版「私たちの道徳」も、あの不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄色、ユング心理学の色彩に染まっているのである。ということは、人と人とのコミュニケーションができない人物達によって、「心のノート」も、その後継版「私たちの道徳」も執筆・作成されたということである。「心のノート」や「私たちの道徳」の執筆者が、自分自身の経験に基づいて書いたものではないということである。観念から導き出された考えを著しているにすぎない。日常のちょっとしたつまづきを経験したことによる心の痛み、苦しみ、悲しみも何もない。他者と心の関わりを持ったことから生ずる喜びや幸福感もない。他者とのコミュニケーションを体験できない人物が執筆した「心のノート」や「私たちの道徳」を、子ども達に配ってもなんになろう。無益であるどころか、むしろ有害であろう。愛を知らなかった夏目漱石の恋愛を扱った小説を(例えば、『それから』などを)、恋愛について学ぶつもりで読んでみたところで、何の足しにもならない。むしろ害になるばかりである(「愛を知らずして人生が語れるか、心の問題を論じることができるか」2月7日付け参照)。

 僕は、「心のノート」の後継版「私たちの道徳」が、この4月から日本の子ども全員に配布されるのを阻止しようとしている。ところが、薄っぺらな愛国心の持ち主であり(「不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄が作成した『心のノート』の後継版によって日本人のアイデンティティを確立するのか」2月4日付け参照)、精神年齢が子どもの年齢に等しい(「内なる悪を同化すれば、それは即ち悪魔である」2月23日付け参照)安部晋三の内閣の支持率が一向に下がらず、国会も安部晋三内閣を退陣させることができないため、2月28日には2014年度の予算案が衆議院を通過しそうなのである。そうなると、「私たちの道徳」の配布が確定したことになるだろう。ちょっと絶望的な気分になってきた。

2014年2月27日木曜日

空中の楼閣で相撲をとる

今日も、やはりおかしな文章表示だ。何者が邪魔しているのだろう。


空中の楼閣で相撲をとる


 Aというユンギアン(Jungian)がいたとしよう。

Aは、B子さんという女性に愛を告白する。しかし

、この愛の告白は、Aの心の中の女性像(ユング

心理学では、アニマ(anima)と呼ばれる)をB

子さんに投げかけて、B子さんその人ではなく、暖

かい血の通っている生身のB子さんその人ではなく

、Aの心の中の女性像に愛を告白しているのであ

る。本質的・根本的には、AはB子さんとの心の

交流が全くないのである。ユンギアンとは、おしなべ

て愛を知らない人ばかりである。
 このような他者との関わりの仕方は、ユング派に

おいては、何もアニマの元型だけに限らず、影

(shadow)などの元型についても同様のことが

生じている。また、人と人とのコミュニケーションだけ

ではない。人類の歴史や社会や文化や芸術を見

るときにも、その見方のおいて上述のようなことに

類することが起きているのである。つまり、

Jungianが自分勝手に作り上げた空中の楼

閣に土俵を拵えて、その土俵の上で相撲をとって

いるのである。空中の楼閣とは、集合的無意識と

か元型とかのユング心理学における、ありもしない

概念のことである(「心の中の女性像は魂ではな

い」2013年11月24日付参照)。このような空

中の楼閣は、時が経てば、やがて幻のように消え

失せていってしまうことだろう。

2014年2月23日日曜日

内なる悪を同化すれば、それは即ち悪魔である

(この表示、今日は誰かに邪魔されているのかな。)


内なる悪を同化すれば、それは即ち悪魔である


 安部晋三(Shinzo Abe)は、どうやら個人

的な自身の足場固めをしっかりとしないまま、いき

なり全体へと跳ね上がり、愛国主義者になってい

るらしい(「不道徳で冷酷で非人間的な河合隼

雄が作成した『心のノート』の後継版によって日本

人のアイデンティティを確立するのか」2月4日付

参照)。2013年の年末の靖国神社参拝は、自

分がこのように行動すれば他人(他国)はどう感じ

るか、ということを予測し考慮したことのない人物

の行動である。ダボスでの、第1次世界大戦前の

英独関係になぞらえた発言は、自分がこれから述

べることを他人がどのように受けとめるだろうか、と

いうようなことを配慮し予想したことのない人物の

発言である。能天気なものである。精神年齢が

子どもの年齢である。実に幸せな人物である。子

どもは大体、幸せなものである、のではないだろう

か。「心のノート」とか、「私たちの道徳」とか、くそ

面白くもない、見ていて頭が痛くなるような、誰か

の屁の匂いがそこはかとなく漂ってくるような(「ステ

ーション」2013年10月29日付参照)、偽善的

な匂いをぷんぷんさせている冊子を、「読め!」と

強制されなければ。これでは、フォアグラを生産す

るために大量の餌を強制的に食べさせられる鵞

鳥と同じである。そうすると、今の子どもは不幸で

あること極まりない。
 自分の言動を近所の人がどのように受けとめる

か、ということを考慮し予測しないで振舞う空っぽ

頭のShinzo Abeが一国の宰相であることは

、日本にとって不幸であり、危ういことである。これ

では、台頭してくる中国に対抗できないだろう。こ

のような下敷きがあれば、下手をすれば、不測の

事態の発生があると戦争になるかもしれない。偽

者の愛国主義者(自身の個人的な足場固めを

きちんとしないまま全体へと飛び跳ねている愛国

主義者)が国のリーダーになったら、えてして近隣

諸国との摩擦が生じるものである。そして、その摩

擦が、のっぴきならないところまで行ってしまうもの

である。

 『ゲド戦記』(翻訳書は岩波書店刊)の「影との

戦い」は、影(元型としての影。shadow)は私

自身だと言ったとき、それまでの影の激烈さが収ま

った、というような話であった。つまらぬ書物である

。文学性も何もない。内容も、このように空疎で

ある。よくも児童書として出版したものだ。こんな

悪書を子どもに与えるのは、実にけしからんではな

いか。
 ユング心理学においては、その個性化の初期段

階で、元型としての影を取り入れ、取り込み、同

化する。それは、正統派精神分析(フロイトの精

神分析)で言うところの、抑圧された感情の意識

化とは本質的に異なる。次元が違うのである。正

統派精神分析の場合は、自我が抑圧された感

情を支配しコントロールするために意識化するの

であるが、邪道派精神分析(ユング派、

Jungian)の場合は、自我が乗っ取られてしま

うのである。自我が、元型としての影を取り入れ、

取り込み、同化するのである。悪魔の自我

(devil's ego)になるのである。まさに影

(心の内なる悪なるもの)に、なりきるのである。

Carl Gustav Jungは、とても自我の弱

い人間であったと言われている。そのような人間が

、悪なるものを自我に同化してしまったら、自我は

どうかしてしまうではないか。自我は、ハンドルを制

御できない運転手になってしまう。
 Jungianは、愛を知らないものばかりである(

2月7日付けの「愛を知らずして人生が語れるか

、心の問題を論じることができるか」参照)。それ

なのに、偉そうに心の問題だとか心の教育だとか

説いている。本来、Jungianには、このような

問題を論じる資格がない。世の中には、偽物の

愛が多いから、愛を知らない者が偉そうな顔をし

て勢いづいているのだろうか。愛を知らない者が、

そんな変なことをするな。
 現実の生身の人間との交流を失い、愛を知ら

ない者が、集合的無意識や元型などという、あり

もしない概念に夢中になり、それにのめり込んでい

る。そんなやつらが、影は私自身だ、と叫んでいる

。恐ろしいことではないか。河合隼雄(Hayao

Kawai)の不道徳で冷酷で非人間的な行動

を見るがいい(「愛を知らずして人生が語れるか、

心の問題を論じることができるか」2月7日など参

照)。悪魔の僕ではないか。このようなやつらを野

放しにしておいてはならない。存在することさえ許

してはならない。

2014年2月12日水曜日

インターネットは誰かに支配されているのか

(このサイトについては、古いほうから順に読んでいただいたほうがよろしいかと思います。)

インターネットは誰かに支配されているのか

 僕はこのWebサイトに掲載する記事を、メモ帳で書いてコピー&ペーストしている。Officeが駄目になって、Wordが使えなくなったからである。このサイトのコンテンツをご覧になれば分かるように、表示が改行だらけの実に読みにくいものになっているときと、すっきりときれいになっているときがある。これは、僕がわざとしていることではない。僕には、どうしようもないことなのである。うまくコピー&ペーストできるときと、できないときがある。
 誰かにパソコンを勝手にいじられているか、インターネット自体が何者かによって好き勝手に支配されているとしか考えられない。このサイトのアクセス数が、絶対にありえない数字になっているときもある。
 誰かがインターネットを支配して恣意的に操っているとすれば、すさまじいことになる。例えば、様々なWebサイトで広告を掲載しているが、そのサイトの閲覧数や広告をクリックした数が広告収入の額に影響するのではないだろうか。閲覧数やクリックの数が何者かに好き勝手に操作されていると、広告収入が何者かに恣意的に決められていることになる。インターネットを支配している者達にとって都合のよいWebサイトには多くの広告収入を、気に入らないWebサイトには実際よりも遥かに少ない広告収入を得させることになる。一体、こいつらは何者なのだろうか。NSAだろうか。それとも・・・・。

2014年2月7日金曜日

愛を知らずして人生が語れるか、心の問題を論じることができるか

愛を知らずして人生が語れるか、心の問題を論じることができるか

 夏目漱石(Soseki Natsume)の小説の恋愛を扱ったものに登場するヒロインには、実在感がない。『三四郎』の美ね子(フォントがない。しめすへんに、爾と書くのではなかったか)にしても、『それから』の三千代にしても、『門』のお米にしても、『こころ』のお嬢さんにしても、その息づかいが感じられないのである。おそらく夏目漱石は、愛を知らなかったのだろう。漱石が小説で描いた女性は、たぶんイギリス文学等を読み込んで形成された女性像ではなかっただろうか。それを日本風に書き直しただけだ。観念のみによって紡ぎ出された女性の姿なのである。個人的な経験の裏づけが全くない女性像なのである。だから存在感がない。
 愛を知らない者は、文学者・芸術家になる資格はない。それとともに、愛を知らない者は、心理学者にもなる資格はない。ユング派の河合隼雄(Hayao Kawai)も氏原寛(Hiroshi Ujihara)も、愛を知らないのだろう。愛を知る人が、日本臨床心理学会で、子どもに対して自分が行った心理検査の取り扱いの非人間性を批判されると、かんかんに怒って学会を飛び出して、心理臨床学会などという変な学会を立ち上げるだろうか。2度も詐欺犯罪(ウソツキ退職)をなした者が、愛を知っているわけがなかろう。また、2千人以上もいると考えられる教え子の誰ひとりとして超有名人になったKawaiの思い出話を語りたがらない。Kawaiは、実に愛に遠い存在であった。冷酷で非人間的であった。Hayao Kawaiが、フルートの演奏会を開いていたことを覚えておられるだろうか。心理学関連の自著が売れに売れた。すると、たちまち、俺はフルートも吹けるのだぞと、演奏会を開催する。どうだ、なかなか芸術的だろう、というわけである。まったく、こいつのやっていること、考えていることは訳が分からない。それで、そのフルート演奏は、どのような演奏だったのか。そんなことは聴かなくても分かる。ひどい演奏であった。聞くに堪えない演奏であった。小学校の学芸会の演奏よりもひどかっただろう。愛を知らない者は、芸術にとって門外漢である。芸術にとって、異邦人みたいなものである。
 Hayao Kawaiの弟子のHiroshi Ujiharaも、Kawai同様に愛を知らないにちがいない。それはそうだろう。集合的無意識とか元型とか、訳の分からないありもしないものにとりつかれていては、目の前の生身の人間が、遥かかなたの手の届かないところに遠のいてしまう。ユング心理学とは、愛のない世界で戯言を並べている心理学である。そのUjiharaが、作家になりたいと心理学関連の著書の中で述べていたのである(氏原寛著『カウンセリングの枠組み』ミネルヴァ書房刊)。愛を知らぬものが、文学者になることは不可能である。その上、Ujiharaの文章を、拾い読みでもいいから読んでみるがいい。中学生の作文かと思うほど稚拙なひどい文章なのである。音痴がテノール歌手になりたいと公言しているようなものである。Ujiharaが作家になりたいと公言していたのは、少なくとも2・30年前のことであるが、Ujiharaが作家になって作品を発表したという話は聞いたことがない。ただの訳の分からない戯言だったのである。もっとも、愛を知らない、文章が下手糞だということであれば、作家になれるはずもない。
 偉大な芸術は、個に徹することによって優れた芸術になったのである。逆説的に聞こえるかもしれないが、個に徹することによって普遍性を獲得する。ユング心理学のように普遍と間違って考えているのもの、集合的と誤って看做しているものに根拠を置いてしまったら芸術の創造ができるはずがない。従って、村上春樹や宮崎駿は偽者である。
 不道徳で非人間的で、愛を知らないHayao Kawaiに道徳の教科書の前身である「心のノート」を作成させるとはなにごとか。影の元型(内なる悪なるもの)を自我が取り込んでしまうユング派の親玉に道徳の教科書の前身である「心のノート」を作成させるとはなにごとか。絶対に許さぬ。Shinzo Abe。Hirobumi Shimomura。子ども達に、多額の税金を使って有害図書を配布するな。そんなことをしたら、叩き殺してやるぞ。

2014年2月4日火曜日

不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄が作成し た「心のノート」の後継版によって日本人のアイデ ンティティを確立するのか

不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄が作成し

た「心のノート」の後継版によって日本人のアイデ

ンティティを確立するのか


 安部晋三(Shinzo Abe)や右翼的な考え

を持った人々に対しては、一般の人は何だか近

寄りがたい、どういうわけかちょっと怖いという印象

を受ける。国を愛するということについては、誰も

異議を唱えることはできない。それにもかかわらず

、どういう訳か、そのような人々から身を引いてしま

うのである。何故なのだろうか。
 安部晋三始め右翼的な考えの人々の愛国心

なるものは、実はもっと卑近な日常的な個人的な

、そして傷ついた道徳心を慰撫するための道具に

すぎないのではないだろうか。日常生活において、

どうも俺は道徳的に人間的にいまひとつだなあ、と

感じている。日常、ちょっとしたことで倫理的に失

敗したと感じる。その挫折感が集積して、俺は人

間として失格なのではないだろうかという懸念にな

る。このような不安・懸念を慰謝するために、国の

ために華々しく散っていった人々のイメージを思い

浮かべる。俺もあのように美しくも儚くも死ぬことが

できたら、この上なく幸せなことだろう。そして、癒さ

れたような気がすることだろう。しかも、普段は俺の

ことを軽蔑しているやつらが、俺を英雄として扱い

、英霊として祭ってくれるではないか。
 このような国粋主義・愛国心は、どこか近寄りが

たいのである。表立って異を唱えることはできない

が、できるならばこのような人々とはお近づきになり

たくない。それは、個による躓き・傷つきを全体的

なもの、普遍的なもの、集合的なものによって慰

謝しようとしているからである。そこが、何となく恐い

印象を与えるのである。全体的なもの、普遍的な

もの、集合的なものを、ユング心理学の集合的

無意識(普遍的無意識)に対応させて考えてい

ただいても構わない。個人的な側面の足場固め

をしっかりしないまま、いきなり普遍へ、集合へ、全

体へと飛び跳ねてしまっているところが恐ろしい印

象を与えてしまうのである。さて、こんなことで個人

としての傷つきや挫折感が真に治癒されるのであ

ろうか。そんなことだから、小林よしのりに「安倍首

相の靖国参拝は英霊を侮辱した」と批判される

のではないだろうか

(http://zasshi.news.yahoo.c

o.jp/article?a=20140131-

00000019-pseven-soci
NEWS ポストセブン 1月31日(金))。河合

隼雄(Hayao Kawai)を見るがいい。自分

個人の問題さえ解決できないくせに(不道徳な2

度のウソツキ退職や高校の教え子に嫌われてい

たことや日本臨床心理学会での非人間的な出

来事など)、「心のノート」で偉そうに愛国心だの

公徳心だのと訓戒をたれていたではないか。だから

、胡散臭い、いかがわしい臭いをぷんぷんと放って

いたのだ。まず、自分自身の問題から何とかせよ


 「心のノート」の後継版の「私たちの道徳」の執

筆者たちも、Hayao Kawaiと同様に偽善者

である。日本の子ども全員に配布される道徳の

教科書を執筆されたほど大変なことを行われたの

で、執筆者の皆さんの道徳性なるものを確認させ

てほしいと問いかけても返事もしない。国民が質

問しても、無視しやがるのである。実に不誠実で

不道徳である。このような国民を見下した、馬鹿

にした者たちに道徳の教科書を執筆させるとは何

事か。このような輩は、まず自分自身の個人的な

問題を解決してから、道徳教育を論ずべきなので

ある。自己の道徳的問題・精神的問題を解決し

た上で、道徳教育を論ずるのでなければ、子ども

たちにとっては有害なもの以外のなにものでもない


 Hayao Kawaiを見れば、Jungianはい

かに恐ろしいものであるかということが分かるであろ

う。「個性化」(individualization)の

過程において、まず影の元型を自我が取り込んで

しまうのである。最初から道徳的な問題を放棄し

てしまっている。そうすると、Kawaiのような不道

徳な犯罪者でも個性化の最終的なゴールに辿り

着くことになり、恐ろしい冷酷で非人間的な人物

が誕生することになる。日本臨床心理学会で自

らの、子どもに対して行った心理検査の非人間

性を批判されると、かんかんに怒って学会を飛び

出して心理臨床学会という変な名称の学会を設

立する。Kawaiには、人間の暖かい血が通って

いるのだろうか。Kawaiの心は、機械かコンピュ

ータの心ではないのか。Kawaiを見ていると、人

間ではない化け物を見ているような気がする。

Kawaiファンの村上春樹も同じである。これがユ

ング心理学の「個性化」なるものの成れの果てな

のである。集合的無意識などという、ありもしない

幻を追い求めていたら、どんなすさまじいことになる

か、ということを実証している。ユング心理学は、

心の全体主義である。Kawaiを見れば分かるよ

うに、Jungian Psychologyがどんなに

恐ろしいものか、ということである。個ではなく全体

で癒す、これは実に安易なやり方なのである。個

に徹することがどんなに苦しいか、その苦しみを避

けようとするものである。
 ユンギアン(Jungiaのn)の世界は、ミツバチ

の世界である。一匹一匹が(ひとりひとりが)個性

を失っている(実際のミツバチには、個性があるか

もしれないが)。みんな、ありもしない集合的無意

識を実在するものと誤信しているからである。村

上春樹の馬鹿が、心と心がつががっている、と言う

とき、それは自らの心が消失したことを意味するの

だ。
 個人としての足場固めをしっかりとした上での国

粋主義や愛国主義は、押しも押されぬ本物だと

思う。とにかく心の問題や精神の問題は、演繹的

な技法に頼るのではなく、帰納的技法に拠るので

ないといけない。個人としての解決を等閑にしたま

ま、いきなり全体へと飛び跳ねてしまうと、どのよう

なことが起きるのか。他を傷つけることになってしま

うのである。信念をもって他を侵す。自分たちこそ

が絶対的な真理の体現者なのだ、という信念を

掲げて他を侵すものほど恐ろしいものはない。
 精神の全体主義の難点と罪は、個を蔑ろにす

る点にある。個を生きることが、どんなに惨めでみ

すぼらしいものであっても、とにかくわれわれは個に

徹する以外に道はない。そして逆説的かもしれな

いが、個に徹することこそが真の普遍に至る唯一

の道なのである。
 道徳は、あくまでも個の人格を通して伝えらるべ

きものであって、さあ、これから道徳を教えてやるぞ

と大見得を切って一斉授業で教えるものではない

。道徳も精神の問題であり、心の問題であろうか

ら、このような一斉授業は、まさに演繹的な技法

に頼ろうとするものである。このような教育を受けた

人が国民の大半を占めると、全体主義国家へと

ひた走ることになるかもしれない。
 道徳を教科化して授業で教えるという安易なや

り方をしてはいけない。道徳の時間に、「いじめは

ひきょうな行為だと規範意識を教え」(衆議院予

算委員会でのShinzo Abeの発言)ても効

果があるだろうか。不道徳で冷酷で非人間的な

河合隼雄が作成した「心のノート」の後継版をモ

デルにして、「日本人のアイデンティティーを確立す

ることも大事だ」(衆議院予算委員会での

Shinzo Abeの発言)と言うのか。何を考えて

いるのだ。これは、国費の無駄遣いではなく、国

費の悪用だ。親の教育する力がなくなっている。

地域社会や親類縁者も子どもを教え諭す力が

ない。子どもは家に閉じこもって、コンピュータを使

ったゲームに夢中になっている。こうなったら万事

休すである。それならば、教員の質を向上させる

ことに金をつぎ込み力を入れたほうがよい。国語や

社会などの授業中に教材に関連して話すエピソ

ードや四方山話に教育的効果を期待できるかも

しれない。そのような教員を採用するようにするべ

きである。また無断欠席や遅刻をした生徒に対す

る対応次第で、生徒に対する教育的効果がずい

ぶんと違ってくる。教員の質の向上に金をかければ

よいわけである。さらに、考える力を育てよ。そのた

めには、国語科の教員に有能な人材を配置する

ように努めるべきである。
 官庁は、会計検査院が恐いに決まっている。「

心のノート」を慌てて名称変更した「私たちの道

徳」を配布するな。いくら名前を変えても、あの不

道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄の作成した

「心のノート」の後継版であることに変わりはない。

国費の無駄遣いどころか、国費の悪用である。「

私たちの道徳」を配布するようなことがあれば、会

計検査院が黙って見ていないだろう。

2014年1月28日火曜日

道徳の教科書の執筆者に、今度は恐縮しないでメールしている

道徳の教科書の執筆者に、今度は恐縮しないでメールしている

「心のノート」の原稿を廃棄してください

 「心のノート」の原稿だと思い込んで書いていた原稿が、図らずも道徳の教科書になる。なんと魅惑的で素敵なことではございませんか。
 先日、メールを差し上げましたが、返事をいただいておりません。道徳の教科書を執筆される有徳な方々ですから、必ず返事があるものと信じていたわけですが、見事に裏切られました。大変残念です。実に不誠実で国民を見下した道徳の教科書の執筆者です。
 ということは、つまり、道徳の教科書を書いていながら、道徳的な人間ではない、ということになるわけですね。これは即ち、偽善者であるということになります。あの日本史上最大最悪の偽善者、不道徳で非人間的な河合隼雄(Hayao Kawai)と同類になるわけです。不道徳な人間が道徳の教科書を執筆するのは、文学的な素養のない人物が国語の教科書の作成にあたって、芥川龍之介の『羅生門』や中島敦の『山月記』を担当するようなものです。皆さんに、日本の子ども全員に配布される道徳の教科書を執筆させるわけにはいきません。そのようなひどいものを子どもに与えるわけにはいきません。
 直ちに文部科学省の担当者に連絡してください。そして、道徳の教科書の原稿を取り戻して破り捨ててもらいましょうか。
 偽善者たちよ、早くこの地球上から立ち去ってしまえ。いや、これは、JungianやJungianの信奉者たちに向かって言っていることです。河合隼雄(Hayao Kawai)やその弟子どもや河合隼雄ファンに言っていることです。河合隼雄は、2度も詐欺犯罪を行いました(2度のウソツキ退職)。自分の金を使うのではなく、とにかく人の金を騙し取って勉強したがる。実に、いじましい。日本臨床心理学会で自ら行った子どもに対する心理検査の取り扱い方の非人間性を批判されると、かんかんに怒って学会を飛び出して心理臨床学会という変な名前の学会を新しく設立しました。さらに、“日本ウソツキクラブ会長”を自任するという人をおちょくった発言をし、人から「河合さんはよく努力なさいますね」と言われると、「他にすることがないから努力させてもらっている」などと訳の分からない戯言を口走っていました。このように不道徳で冷酷で非人間的な人物が、道徳の副教材「心のノート」を作成していたのです。今まで日本で、このようなすさまじい偽善者を見たことがありません。道徳の教科書の執筆者のみなさんが、自分の偽善性・欺瞞性を深く反省し、更生の道を歩もうとなさるのでしたらこの限りではありません。
 そうでないならば、偽善者の教育者は要りません。直ちに退職されることを勧告します。

2014年1月21日火曜日

道徳の教科書の執筆者に恐縮しながらメールさせてもらっている

道徳の教科書の執筆者に恐縮しながらメールさせてもらっている

 気高くも立派な道徳の教科書の執筆者の皆

様方に、不肖ながらわたくしが畏れかしこみ、慄き

ながら次のようなメールをさせていただいている。

(以下、メールのコピー。)

「心のノート」について

 「心のノート」は、2013年12月26日に「私た

ちの道徳」に名称変更したそうですね。すばらしい

ことではありませんか。皆様方が辛苦の末、執筆

された改訂版「心のノート」が道徳の教科書に格

上げされたのです。まずは、慶意を表しておきまし

ょうか。
 道徳の教科書の執筆者としてのすばらしい、こ

の上なく“上等な人間”の立場としましては、次

のような主張はいかが受け止めになるのでしょうか

。なんだ、そんなものは下司の主張だと一笑に付

されますか?それなら、ぜひとも真摯に読んでいた

だきたいと存じます。必ず、心のこもった誠実な丁

寧な返信をいただけるものと信じております。

http://moriyamag.blogspot.c

om/

(以下、上述のURLのコンテンツのコピー)
(「あまりに道徳的な、道徳の教科書の執筆者

」と本文は同じ。)

あまりに道徳的な、道徳の教科書の執筆者

 もしも僕が、自分は道徳的な人間であると言っ

たら、たちまち天は裂け、雷鳴が轟き、稲妻が走

り、僕は打たれて地に倒れ伏すことだろう。
 ローマ法王フランシスコ(Pope Francis)

に、「あなたは道徳的な人ですか?」と問いかけた

らどうだろうか。十中八九、「私は道徳的な人間

ではありません」という答えが返ってくるだろう。聖

徳太子(Prince Shotoku)や孔子

(Confucius)に尋ねてみたところで、やはり

同様の答えが返ってくるにちがいない。
 「心のノート」改め、「私たちの道徳」の執筆者に

尋ねたい。君たちは本当に自分自身を“道徳的

な”人間だと考えているのか。本当に心底、道徳

的であると自身を看做しているのか。真に、そうな

のか。もしも自分自身を、道徳的な人間だと考え

ていないのならば、君たちに道徳の教科書を執筆

させるわけにはいかない。直ちに文部科学省の担

当者に連絡して、提出した「私たちの道徳」の原

稿を取り戻して破り捨ててしまえ。
 もしも君たちが、自分自身を道徳的であると看

做しているのならば、これは面白い。ぜひ、その旨

をメディアやインターネットを使って国民全体に、は

っきりと知らしめよ。国民ひとりひとりの目をまっすぐ

に見つめて、胸を張って宣言せよ。君たちには、そ

の義務があるのである。何しろ、日本の子ども全

員に配布される道徳の教科書を執筆なされたロ

ーマ法王も聖徳太子も孔子も脱帽するほどの偉

大な人物なのであるから。君たちは、それこそ大

変な重大なことを行ったのである。それができない

ということになれば、君たちの道徳性について、疑

念を抱かざるを得ない。
 Hayao Kawaiは、日本史上、最大最悪

の偽善者だった。ウソツキ退職という詐欺犯罪行

為を2度もなし、日本臨床心理学会で子どもの

心理検査に関する自らの非人間的な取り扱いを

批判されると、カンカンに怒って学会を飛び出し、

心理臨床学会という妙な名称の学会を設立した

。日本ウソツキクラブ会長を自任するなどと、ふざ

けた、人を馬鹿にした発言を行う。自分の勤務

高校の名前を隠そうとする。後ろ足で砂をかける

ようにして、あとは野となれ山となれと言わんばかり

に高校を退職(ウソツキ退職)したからである。2

千人から数千人もいると考えられる教え子の誰ひ

とりとして、Hayao Kawaiの思い出話を語ろ

うとはしない。タレント以上の有名人になったにも

かかわらず。余程、冷酷で人間味のない数学教

師だったのだろう。こんな人物が、道徳の副教材「

心のノート」を作成していたのである。典型的な偽

善者ではないか。こんなすさまじい偽善者は、今

まで日本には現れたことがない。
 そもそも道徳というものは、これから教えてやるぞ

と大見得を切り、大上段に振りかざして教授する

ものではない。日常のさりげない場面において、そ

れと意図せずに、それとなく伝えていくのが道徳な

のである。そうでなければ、偽善者の道徳になって

しまうのである。偽善者は、ものを考える力を持ち

合わせていない。Hayao Kawaiの様を見る

がいい。道徳や「心のノート」などと愚かなことを言

う前に、まず考える力を育てよ。

(以上、上述のURLのコンテンツのコピー)

 もしも御自分が、きわめて道徳的な人間である

とお考えでしたら、ぜひともメディアやインターネット

を使って国民全体に宣言していただきたい。私は

、ローマ法王や聖徳太子や孔子に勝るこの上なく

道徳的で、非の打ち所のない人間であると。これ

は、貴殿の義務です。「私たちの道徳」は、日本

の子ども全員に配布されるわけですから。そのよう

な宣言ができないということであれば、貴殿の道徳

性を疑わざるをえないということになり、貴殿は道

徳の教科書を執筆する資格が全くないということ

になるでしょう。

(以上、執筆者へのメール)

 道徳の教科書を執筆される、すぐれて道徳的

な方々であるから、必ず心のこもった誠実な返事

があると信じている。 

 ところで、ひとつお願いがあります。以下に執筆

者の名簿(文部科学省発表)を掲げておきます

が、個人のメールアドレスは分かりませんので、勤

務先にメールを送信して御本人に転送していただ

きたいと申し上げています。勤務先のメールアドレ

スが分からない場合は、その上部機関になります

。例えば、学校なら市町村の教育委員会か都道

府県の教育委員会になるわけです。それで、勤

務先が学校で、メールアドレスが分からなくて、

FAX番号なら分かるケースがよくあります。この場

合は、メールよりもFAXで送信したほうがよいと思

いますが、僕は外国に逃亡中のためにFAXを使

うことができません。そこでお願いですが、FAX送

信を助けていただけないでしょうか。相手方に

FAX番号を知られても大丈夫な人がいいと思い

ます。助けてあげてもいいとお考えの人は、次のメ

ールにご連絡ください。

goromoriyama#gmail.com
(#を、アットマークに変えてください。)

文部科学省発表の道徳の教科書執筆者の名

簿

トップ > 会見・報道・お知らせ > 報道発表 

> 平成25年度の報道発表 > 「心のノート」

改訂作業部会の発足について > (別紙2)「

心のノート」改訂作業部会協力委員名簿
(別紙2)「心のノート」改訂作業部会協力委員

名簿

◎主査・○副主査

小学校低学年用チーム

 遠藤 敏朗
 愛媛県松山市立堀江小学校長
 表迫 信行
 東京都練馬区立北原小学校長
 粂 由利子
 横浜市立東希望が丘小学校長
 小林 沙友里
 東京都足立区立亀田小学校教諭
 ○
 清水 保徳
 帝京大学大学院教職研究科准教授
 反町 京子
 千葉市立大宮台小学校長
 ◎
 長谷 徹
 東京家政学院大学現代生活学部教授
 早川 大介
 東京都板橋区立高島第五小学校主任教諭
 藤澤 美智子
 さいたま市立芝川小学校長
 松田 敦子
 沖縄県那覇市立城東小学校教頭
 吉成 美紀
 東京都町田市立町田第四小学校主幹教諭
 吉原 聖人
 国立大学法人香川大学教育学部附属髙松

小学校教諭
小学校中学年用チーム

 浅見 哲也
 埼玉県深谷市教育委員会学校教育課課長

補佐兼指導主事
 今村 信哉
 さいたま市立大宮小学校長
 宇賀神 佳子
 東京都中野区立緑野小学校長
 大庭 正美
 北九州市教育委員会指導第一課長
 ○
 押谷 由夫
 昭和女子大学大学院生活機構研究科教授
 河合 宣昌
 岐阜県岐阜市立茜部小学校長
 木村 惠子
 東京都杉並区立新泉小学校長
 黒瀨 敬
 岩手県盛岡市立河北小学校教諭
 鈴木 芽吹
 東京都中野区立塔山小学校主任教諭
 ◎
 永田 繁雄
 国立大学法人東京学芸大学教授
 橋本 ひろみ
 東京都世田谷区立池之上小学校主任教諭
 藤村 真理
 高知県教育委員会小中学校課指導主事
 村上 桂一郎
 東京都中野区立鷺宮小学校主任教諭
小学校高学年用チーム

 岡田 直人
 埼玉県八潮市立大瀬小学校長
 木下 美紀
 福岡県福津市立津屋崎小学校主幹教諭
 小中 理司
 北海道網走市立白鳥台小学校教諭
 齋藤 道子
 東京都文京区立大塚小学校副校長
 染谷 由之
 東京都武蔵村山市立第三小学校長
 ○
 高橋 妃彩子
 東京都渋谷区立加計塚小学校長
 田中 博
 東京都足立区立東綾瀬小学校主幹教諭
 常見 昌弘
 さいたま市立仲町小学校長
 中治 謙一
 東京都大田区立大森第四小学校主任教諭
 ◎
 馬場 喜久雄
 一般財団法人総合初等教育研究所室長
 福田 純子
 東京都練馬区立中村西小学校長
 渡邊 万里子
 東京都練馬区立練馬東小学校長
中学校用チーム

 荒木 忍
 東京都練馬区教育委員会指導主事
 石黒 真愁子
 さいたま市立指扇小学校教頭
 磯部 一雄
 札幌市立平岡中央中学校教諭
 菅野 由紀子
 東京都武蔵野市立第五中学校長
 小林 園
 京都府総合教育センター研究主事兼指導主

 齋藤 嘉則
 仙台市教育局学校教育部教育指導課主幹
 七條 正典
 国立大学法人香川大学教授
 ◎
 柴原 弘志
 京都市教育委員会指導部長
 ○
 鈴木 明雄
 東京都北区立飛鳥中学校長
 賞雅 技子
 東京都三鷹市立第三中学校長
 谷田 増幸
 国立大学法人兵庫教育大学大学院教授
 馬場 勝
 兵庫県立教育研修所義務教育研修課長
 松本 好弘
 広島県世羅町立甲山中学校教諭

お問合せ先

初等中等教育局教育課程課

(初等中等教育局教育課程課)
ページの先頭に戻る文部科学省ホームページトッ

プへ

「おっさん。おっさん。」
「なんじゃい。あーあ、またお前か。久しぶりだな。

今度はどんな用だ。」
「おっさん。ほんまに性格悪いわ。」
「そうかなあ。」
「もうあきれたわ、その厭味。」
「そうかなあ。厭味かなあ。うるさい。俺は道徳の

教科書なんか書いたことはないぞ。さっさと消え失

せろ。」

2014年1月18日土曜日

あまりに道徳的な、道徳の教科書の執筆者

あまりに道徳的な、道徳の教科書の執筆者

 もしも僕が、自分は道徳的な人間であると言っ

たら、たちまち天は裂け、雷鳴が轟き、稲妻が走

り、僕は打たれて地に倒れ伏すことだろう。
 ローマ法王フランシスコ(Pope Francis)

に、「あなたは道徳的な人ですか?」と問いかけた

らどうだろうか。十中八九、「私は道徳的な人間

ではありません」という答えが返ってくるだろう。聖

徳太子(Prince Shotoku)や孔子

(Confucius)に尋ねてみたところで、やはり

同様の答えが返ってくるにちがいない。
 「心のノート」改め、「私たちの道徳」の執筆者に

尋ねたい。君たちは本当に自分自身を“道徳的

な”人間だと考えているのか。本当に心底、道徳

的であると自身を看做しているのか。真に、そうな

のか。もしも自分自身を、道徳的な人間だと考え

ていないのならば、君たちに道徳の教科書を執筆

させるわけにはいかない。直ちに文部科学省の担

当者に連絡して、提出した「私たちの道徳」の原

稿を取り戻して破り捨ててしまえ。
 もしも君たちが、自分自身を道徳的であると看

做しているのならば、これは面白い。ぜひ、その旨

をメディアやインターネットを使って国民全体に、は

っきりと知らしめよ。君たちには、その義務があるの

である。何しろ、日本の子ども全員に配布される

道徳の教科書を執筆なされたローマ法王も聖徳

太子も孔子も脱帽するほどの偉大な人物なので

あるから。君たちは、それこそ大変な重大なことを

行ったのである。それができないということになれば

、君たちの道徳性について、疑念を抱かざるを得

ない。
 Hayao Kawaiは、日本史上、最大最悪

の偽善者だった。ウソツキ退職という詐欺犯罪行

為を2度もなし、日本臨床心理学会で子どもの

心理検査に関する自らの非人間的な取り扱いを

批判されると、カンカンに怒って学会を飛び出し、

心理臨床学会という妙な名称の学会を設立した

。日本ウソツキクラブ会長を自任するなどと、ふざ

けた、人を馬鹿にした発言を行う。自分の勤務

高校の名前を隠そうとする。後ろ足で砂をかける

ようにして、あとは野となれ山となれと言わんばかり

に高校を退職(ウソツキ退職)したからである。2

千人から数千人もいると考えられる教え子の誰ひ

とりとして、Hayao Kawaiの思い出話を語ろ

うとはしない。タレント以上の有名人になったにも

かかわらず。余程、冷酷で人間味のない数学教

師だったのだろう。こんな人物が、道徳の副教材「

心のノート」を作成していたのである。典型的な偽

善者ではないか。こんなすさまじい偽善者は、今

まで日本には現れたことがない。
 そもそも道徳というものは、これから教えてやるぞ

と大見得を切り、大上段に振りかざして教授する

ものではない。日常のさりげない場面において、そ

れと意図せずに、それとなく伝えていくのが道徳な

のである。そうでなければ、偽善者の道徳になって

しまうのである。偽善者は、ものを考える力を持ち

合わせていない。Hayao Kawaiの様を見る

がいい。道徳や「心のノート」などと愚かなことを言

う前に、まず考える力を育てよ。
 

2014年1月16日木曜日

罪責感を生じさせるな!

罪責感を生じさせるな!

 年末から年始にかけて、衆議院・参議院の文教委員会(衆参で名称が異なる)の各委員にメールを送って、「心のノート」の後継版、「私たちの道徳」を配布させないよう活動していただきたいと要望していた。全員には送れなかった。メールアドレスが分からない人もいたからである。「心のノート」は、2013年12月26日に慌てて名称を改めて「私たちの道徳」とした。姑息なことを考えるやつらだ。これでは、逃亡中の犯罪者が名前を変えて潜伏しているようなものだ。
 まず、「心のノート」に反対の立場であると考えられる野党の委員の皆さんに要望した。それから、少し迷ったが、与党と、考え方が与党に近いと思われる野党の委員にも要望した。公明党(Komeito)の委員は、完全に無視した。公明党の委員は、どうせ自分の頭で考えることをしない。党の方針が右なら右に行き、翌日、党の方針が左になれば、自分でものを考えずに左に行くやつらだからである。これで政治家だそうだ。こんなやつらに要望しても仕方がない。
 自民党(the Liberal Democratic Party )の委員はどうだろうか。中には、中曽根弘文(Hirobumi Nakasone。あの邪悪なYasuhiro Nakasoneの息子。Hirobumi Nakasoneは、「心のノート」の実現のために重要な役割を果たした)、小渕優子、橋本聖子というような名の知れた国会議員もいる。「心のノート」を初めて作成したHayao Kawaiの冷酷で非人間的な人格的特徴。「心のノート」を、配ったり配らなかったりすれば、教育現場に、「心のノート」なんかいい加減に取り扱っても構いませんよというメッセージを添えて「心のノート」を配布していることになる。これは国費の無駄遣いである。会計検査院が黙って見ているはずがない。このような事実があるのに、自民党の委員たちは「心のノート」の配布をストップさせるために活動してくれるだろうか。自民党の委員たちの国会議員としての資質・適格性が問われている。「心のノート」の配布はおかしいと感じながら、安部晋三内閣に何も言えないということであれば、それだけで自民党の議員の心に罪責の感情を生じさせることになる。そのような罪責感を抱いたままでは、議員としての生命は終わったも同然である。人は、そのような罪責感を持ったまま有能に仕事をすることはできない。
  それから、「心のノート」に反対の立場にあると考えられる野党の政党本部にも、「心のノート」(および「私たちの道徳」)を廃止するように活動していただきたいと要請した。また、日本教職員組合(日教組)、全日本教職員組合(全教)、全日本教職員連盟にも同様の要請を行い、特に組合には、「心のノート」の取り扱いをめぐって処分を受けた教員の方がおられたら、援助して処分の取り消しと補償のために力を貸してあげていただきたいと思う。これは、2002年以降の「心のノート」が配布されていた間の全期間が対象にな。自分たちは配ったり配らなかったりと、いい加減な取り扱いをしているのに、教育現場で適当な取り扱いをした教員に対して、どうして処分することができるだろうか。処分する権限がないのに処分したことになる。
 「心のノート」をHayao Kawaiに作成させ、文化庁長官に任命した小泉純一郎(Junichro Koizumi。当時の首相)と遠山子(Atsuko Toyama。当時の文相。ただし、文化庁長官任命については、遠山ではないかもしれない)は、国家と国民に対して大罪を犯したのである。

 会計検査院が、黙って指をくわえて見てはいないだろう。

2014年1月13日月曜日

Mechanistic Mind or Heart

Mechanistic Mind or Heart

 Hayao Kawaiは、2度の犯罪行為(ウソツキ退職)をなし、タレント以上の有名人になっても、2千人から数千人もいると考えられる高校勤務時代の教え子の誰ひとりとしてKawaiの思い出話を語ろうとする人が出てこないほど、冷たい人間味のない数学教師だった。日本臨床心理学会で、Kawaiが行った子どもの心理検査の非人間的な取り扱いを批判されると、カンカンに怒って学会を飛び出した。そして、新しい学会を設立した。このように冷酷で非人間的な人物である。日本ウソツキクラブ会長などと、ふざけた、人を馬鹿にした発言をする。人から「河合さんは、よく努力なさいますね」と言われると、「他にすることがないから、努力させてもらっている」と人を食ったような受け答えをする。人間性がねじ曲がっているのである。メカニカルな心。これは、ユング派の特徴的な性格である。C・G・Jungがそうなら、Hayao Kawaiもそうである。C・G・Jung、Hayao Kawaiの流れを汲む者、すべて冷酷で非人間的である。Kawaiの弟子も又弟子もKawaiの同調者も、冷酷で非人間的である。ユング心理学は、人格の全体に関わる心理学だからである。
 2013年4月に、「心のノート」を改訂することに決め、その時に改訂版の原稿執筆者も決定されたのだろう。原稿の執筆者は、当然ながら、Kawaiの弟子や信奉者などKawaiの流れを汲む者たちであろう。その原稿は、もう既に出来上がっているのではないだろうか。いくら名称だけ去年の12月26日に慌てて変えてみたところで、実質的に「改訂版 心のノート」であることになんら変わりはない。どうして冷酷で非人間的な者たちが作成した実質的な道徳の教科書を、子どもたちに配布しようとするのか。奇妙ではないか。何を血迷っているのだ。

 このサイトは、ある国からのアクセス数が、日本からのアクセス数を上回ることがしばしばある。また、別のある国からのアクセス数が、日本からのそれを上回ることもたまにある。ずいぶんとインターナショナルになったものだ。世界各国の皆さんにお願いする。どうか、ユング派(Jungian)を社会から追放していただきたい。Hayao Kawaiは、CGJungの思想を外国人(おそらくアメリカ人)のJungianから教わった。そのアメリカ人も冷酷で非人間的な人物であったはずだ。Jungian Psychologyは、全人格に関わる心理学であるからである。教祖のCGJungも、その弟子も又弟子も、またその弟子も世界中のJungianは、冷酷で非人間的である。人間性が歪曲しているのである。人格が妙な方向に凝り固まってしまっている。これは、暖かい血が流れている人間という感じがしない。化け物みたいなものである。しかも、彼らは悪を否定しない。このような、YakuzaMafiaよりも恐ろしいやつらを野放しにしておいてはいけない。世界中の大学や研究機関などにいるJungianを追放していただきたい。

2014年1月8日水曜日

流れ木と

流れ木と立つ白波と焼く塩といづれかからきわたつみの底

2014年1月3日金曜日

サンタが橋の上からやってきた

サンタが橋の上からやってきた

 中米グアテマラで、「サンタクロースに扮(ふん)し

た消防隊員のエクトル・チャコンさんが橋を降下し

、貧困層の子どもたちにクリスマスのプレゼントを

配った」(Reuters)。もう16年も続けているそ

うである。そんなに裕福でもなさそうだし、有名人

でもなさそうなこの人物について、“聖人”という言

葉が思い浮かんだ。このような話に接したとき、一

応はその動機に自己顕示欲などの妙な夾雑物

が混入していないか検討してみる必要があろうけ

れども、この人の動機は純粋なのではないかと思

われる。たとえ、そうでないにせよ、貧しい子どもた

ちにとって、胸がわくわくする心踊る瞬間であったこ

とに変わりはない。世界中には、このような隠れた

聖人がたくさんいるにちがいない。

 どこかの国で、目くじら立てて、口角泡を飛ばし

て、「道徳教育だ。道徳教育をしないといけない

のだ」、「何だと?道徳教育に反対するだと?この

非国民め。厳重に処分してやる」と息巻いてる裕

福で、もしかしたら権力も握っているかもしれない

、名の知れたお偉方の皆様。少しは、橋を下りる

サンタさんの爪の垢でも煎じて飲ませてもらったほ

うがよいのではないでしょうか。

 道徳というものは、組織的・公的に教えては駄

目だと思う。あくまでも個人的・私的に教えるので

はないと意味がないであろう。塙保己一という人

はね、こんなにすばらしい人なのですよ、皆さん、

ぜひこのような生き方をしましょうね、ということを授

業で何べんも繰り返しても身にはつかない。例え

ば、近所のおじさんとか、親戚のおじさんから、塙

保己一という人がいてさ、こんなことをしたのだよ、

すごいね、と何気なく言われたほうがはるかに心に

残り、その子のその後の人生の肥やしになると思う

。そもそも道徳・道徳性の伝授というものは、1対

1でなされるべきものである。個人の人格性に乗っ

かって伝えられなければ身につかない。親鳥が巣

の中の雛鳥に、口移しで餌を与えるように行われ

るべきものである。それを公教育で、多人数の子

に一挙に伝えようとすると、その道徳性それ自体

が変質する恐れがある。そのような道徳教育を受

けた国民が多数になると、それこそ全体主義国

家へと、ひた走ることになる。道徳とか倫理というも

のは、公教育で扱うにそぐわない。その子どもが置

かれている環境、つまり家族・親戚・地域社会・

友人関係・サークル等で人為性を排した自然性

の中で育まれるべきものである。これを人為的・公

的・組織的に行おうとすると、道徳の画一化・普

遍化(道徳には、個別的・特殊的な性格もない

わけではない)がなされることになる。
 昨年(2013年)12月25日に文部科学省に

対して、正式に要望した。「心のノート」を、国が

配ったり配らなかったりしていれば、いい加減にやっ

ても全然やらなくても文句言いませんよ、というメッ

セージを添えて配布しているのだから、国費の無

駄遣いになる。それなら、おやめになったら如何で

すか、と意見を述べて要望した。12月27日まで

に回答してほしいと求めていたが、回答がなかった

。国民が正式に要望しているのに、無視するとは

何事だ。一体、どこを向いて仕事をしているのか。
 ところがその間に、「心のノート」の名称を改めて

、「わたしたちの道徳」としているのである。


「心のノート」をめぐる報道および文部科学省の発

表をピックアップした。「心のノート」という名称と記

事の日付、道徳の教科化という観点から見てい

ただきたい。

(以下、コピー)
(1) 朝日新聞 2013.4.5
道徳の教科化へ初会合 文科省懇談会
 文部科学省の「道徳教育の充実に関する懇

談会」が4日、初会合を開いた。道徳の教科化

を求めた政府の教育再生実行会議の提言を受

け、設けられた。学校向け教材「心のノート」の再

編集や教員の指導力向上策などを議論する。

委員は大学教授や小中学校長ら17人。座長

には鳥居泰彦・慶応義塾学事顧問が選ばれた




(2) 毎日新聞 2013年04月22日 東京

朝刊
道徳の教科化 どう進める??下村博文・文科

相インタビュー
(「メモ帳」を使っているので、一部文字化けしてい

る。「??」は質問者、「◆」は下村博文・文科相

の発言である。)

 ??教材はどうするのですか。

 ◆まず「心のノート」を全面改定し、それを来年

4月からすべての小中学校で教材として使えるよ

うに準備を始めている。今の「心のノート」も学習

指導要領にのっとって作られているが、本人が感

想を書く記述式のものだから教材としては十分で

はないと考える。

 ●心のノート教材に

 ??改定版はどのような内容になりますか。

 ◆中身は学習指導要領の通りだが、それを子

供に分かりやすいようにしていく。記述式の今の「

心のノート」とは違い、どの項目でもいいのだが、

物語的なものを使うことによって理解を深めるヒン

トを与えていくことを考えている。偉人の伝記を入

れてもいいと思う。特定の価値を押しつける偉人

だけを並べるということではなく、学習指導要領の

コンセプトに合った偉人の子供の頃のエピソードな

どを入れながら学んでいけるようにしたい。その教

材を家に持って帰って、親子で一緒に学べる環

境を作っていくことを考えている。

 ??「教科書」の位置付けにするのでしょうか。

 ◆教科書ではない。とりあえず来年は「心のノー

ト」の全面改定版を教材として作るが、それ以降

はそれを基本に民間会社が参入して教科書を作

ってもらうことも考えている。あるべき教科書の形と

いうのは今後、有識者の懇談会である「道徳教

育の充実に関する懇談会」で議論してもらう予定

だ。

 ●絶対評価は難しい

 ??道徳は授業時数を増やすのでしょうか。

 ◆今までと同様、週1回。そこで改定版の「心

のノート」を使ってくださいということだ。全員に無償

配布するから活用してもらいたいが、教科書では

ないので、自治体によっては副読本を併用すると

ころもあると思う。いい副読本もあるので地域の特

性を生かしながら実施してほしい。

 ??教科になると評価や教員免許はどうするの

ですか。

 ◆評価に関しては、国語や算数など他の教科

のような絶対評価や相対評価は難しい。有識者

懇談会でも、他の教科と違う評価の仕方を考え

るべきではないかと意見も出ている。一方、免許

は大学で教員養成課程の中に道徳という新たな

コースを設け、教授らを選任して……となると、これ

からやっても10年はかかる。すでに道徳はあるの

だから、免許がなくても学校の先生であればだれ

でもやれるはず。それなりの研修はさらに必要だが

、やれるところからやっていけばいいと思う。


(3) 文部科学省発表 平成25年11月22



道徳教育の充実に関する懇談会(第10回)の

開催について

  文部科学省では、教育再生実行会議の第

一次提言を踏まえ、道徳教育の更なる充実に

向け、道徳教育の現状や課題を検証しつつ、「

心のノート」の全面改訂や教員の指導力向上方

策、道徳の特性を踏まえた新たな枠組みによる

教科化の具体的な在り方などについて検討を行

うため、「道徳教育の充実に関する懇談会」の第

10回会議を以下のとおり開催いたしますのでお

知らせします。(以下略)


(4) 東京新聞 2013年12月25日 朝刊
二十四日に政府が決定した二〇一四年度予算

案は、過去最大の歳出額という見かけ以上に、

政権の意図がにじむ予算といえる。
教育費では心の領域である道徳教育費を倍増

した。
文教関係予算では、「道徳教育の抜本的改善

と充実」として、関連費を前年度から六億円増や

し、約十四億円とした。小中学生に新「心のノー

ト」を配布するほか、教員の指導強化費などに充

てる。


(5) 時事通信 2013/12/26-12:11

新「心のノート」、1.5倍に=道徳教科化、15

年度にも-文科省
 下村博文文部科学相は26日の閣議後記者

会見で、全面改定して来春から配布する小中学

生向け道徳教材「心のノート」の内容を発表した


 新しい名称は「わたしたちの道徳」。偉人などを

題材とした「読み物」を盛り込んだり、いじめの未

然防止につながる題材を取り上げたりして、分量

は従来の1.5倍程度に増えた。
 また、道徳の教科化を検討してきた有識者会

議の鳥居泰彦座長(元慶応義塾長)は同日、

他の教科のように5段階などの数値評価を行わ

ない「特別の教科」とした上で、検定教科書の使

用を求める報告書を下村文科相に提出した。
 文科省は年明けにも中央教育審議会に諮問

。学習指導要領の一部改定を経て、早ければ2

015年度にも先行実施される見通し。


(6) 文部科学省発表
全面改訂版「心のノート」について
平成25年12月26日

文部科学省では、道徳教育の更なる充実に向

けて、「心のノート」の全面改訂作業を行ってきま

した。このたび、その作業がほぼ完了しましたので

、以下のとおり改訂版の名称と現時点での構成

表についてお知らせします。

1 名称及びページ数

小学校1・2年 「わたしたちの道徳」 (総ページ

数160)

小学校3・4年 「わたしたちの道徳」 (総ページ

数176)

小学校5・6年 「私たちの道徳」    (総ペー

ジ数192)

中学校     「私たちの道徳」    (総ペー

ジ数240)
(以下略)


(7) 日本経済新聞 2013/12/27

0:31
新道徳教材の概要公表 「心のノート」改訂、

1.5倍に

 文部科学省は26日、国が作成する新たな道

徳教材の概要を公表した。従来の「心のノート」

を大幅に改訂し、「私たちの道徳」と名付ける。ペ

ージ数を1.5倍程度にし、東日本大震災被災

地の学校の活動やスポーツ選手の活躍を取り上

げる。

 文科省によると、被災地を元気づけようと学校

新聞づくりに取り組む岩手県大船渡市立第一

中学校の活動や、シドニー五輪の女子マラソンで

金メダルを獲得した高橋尚子さんのエピソードを

紹介するという。

 下村博文文科相が就任直後に、「道徳教育

を充実させたい」として改訂作業を指示していた。

 文科省の有識者会議は今月、小中学校の道

徳教育を教科化し、検定教科書を使うよう提言

する報告書をまとめており、座長の鳥居泰彦慶

応義塾学事顧問が同日、下村文科相に手渡し

た。

 文科省は来年度にも学習指導要領を改定す

る方針で、下村文科相は「基本的な社会のルー

ルを学ぶ機会がないまま子供が成長している。今

後、中教審で報告書に沿った議論をしてもらいた

い」と話した。


(8) 朝日新聞 2013年12月27日05時

00分
道徳の教科格上げを報告 検定教科書導入も

盛る 有識者会議

 文部科学省の「道徳教育の充実に関する懇

談会」(座長=鳥居泰彦・慶応義塾学事顧問)

は26日、小中学校の道徳を教科に格上げする

報告書を下村博文文科相に提出した。検定教

科書や子どもの評価の必要性も指摘。「決まった

価値観の押しつけにつながる」と懸念も根強いが

、文科省は2015年度からの一部実施を検討し

ている。
(中略)
 一方、文科省は26日、「心のノート」に代わっ

て来春、新教材「私たちの道徳」を全国の小中

学校に配ると発表した。偉人伝や格言などの読

み物資料が大幅に増えた。下村文科相は同日

の記者会見で「授業や家庭で活用しやすい内容

とした」と説明した。


(9) 【文科省】1つの答えだけではない主体的

な道徳教育へ…12/26下村大臣会見
リセマム 2013年12月26日 21時32分

(2014年1月2日 06時38分 更新)


下村文部科学大臣定例記者会見のようす

 下村博文文部科学大臣は12月26日の定例

記者会見で心のノートの改訂版「私たちの道徳」

が完成へ、1つの答えだけではない主体的な道徳

教育を行うこと、などについて発言した。

◆12月26日のテーマ
1つの答えだけではない、主体的な道徳教育へ(

0:16~)(7:38~)

・1つの答えだけではない、主体的な道徳教育へ
 道徳の教科化の検討と並行して行われてきた

心のノートの改訂・編集がほぼ完成し、「子どもた

ちひとりひとりが自分でしっかりと考えながら道徳

心を培ってほしい」との願いを込めて付けられた新

たな名称「私たちの道徳」も公表された。2014

年4月から使用できるよう全国の小中学生に配

布される予定だ。
(以上、コピー)


 2013年12月26日ごろに、「心のノート」とい

う名称を改めて「私たちの道徳」(小学校低学年

・中学年は「わたしたちの道徳」)としたわけである

。僕が、「心のノート」を廃止してほしいと要望して

いる間に、返事もしない、回答もしないで、こんな

ことをしていたわけである。「心のノート」という名前

を棄てても、新しい冊子が「心のノート」を継承し

たものであって、「心のノート」(改訂版)と呼ぶべき

性質のものであることに変わりはない。「私たちの

道徳」の中味・内容は、「心のノート」を発展した

ものにすぎない。そして、これが将来の道徳の教

科書になるのである。
 そもそも「心のノート」は、Hayao Kawaiが

中心になって作成したものであるから、その本質

的性質はユング心理学に基礎を置くものであり、

子ども達をカウンセリング(=マインドコントロール)

してやろうという意図を有するものである。本来な

らば、これは道徳とは無縁なものである。かといっ

て、国語科に含めることもできなければ、社会科

にすることもできない。それならば、道徳に一応属

するものであるとするほかなかろう、ということで道

徳の副教材としたのだろう。2013年12月26日

に、「心のノート」を無理やり道徳の範疇に入れて

、将来の道徳の教科書の前身にしたのである。や

っていることが、めちゃくちゃではないか。
  「心のノート」を作成したHayao Kawaiは

、犯罪者(2回のウソツキ退職)である。高校勤

務時代のKawaiの教え子は、2千人から数千

人いるはずだが、Kawaiがタレント以上の有名

人になっても、誰ひとりとしてKawaiの思い出話

を語ろうとしない(「那須与一、将に射むとす」

(10月18日付)参照)。余程、非人間的な冷

たい数学教師だったのだろう。日本臨床心理学

会で、子どもの心理検査について、その非人間

的な取り扱いを批判されると、カンカンに怒って学

会を飛び出す(「冷血動物著「心のノート」

(2013.12.24付)参照)。「日本ウソツキクラ

ブ会長」などと、ふざけた、人を馬鹿にした発言を

行う。このような人物が作成した「心のノート」の後

継版を、道徳の準教科書にしようとしている。しか

もユング心理学は、悪を否定しないのである。こ

れを、道徳の準教科書にしようというのか。鳥居

泰彦(Yasuhiko Torii。「道徳教育の

充実に関する懇談会」座長)、下村博文

(Hirobumi Shimomura。文部科学大

臣)、安部晋三(Shinzo Abe)そして文部

官僚、お前たちの頭の中はどうなっているのか。お

前たちこそ、道徳教育を受けなければならないの

ではないか。


 要するに、当初は「改訂版 心のノート」を作るつもりであったのである。その原稿も、既に出来上がっているかもしれない。あとは、出版社に注文して製本するだけだろう。ところが急遽、2013年12月26日に、「心のノート」という名前を棄てて、「わたしたちの道徳」にすることにしたのである。何故だろう。僕が、2013年12月25日から27日にかけて、「心のノート」をおやめになったらいかがですか会計検査院が黙って見ていないでしょうと要望している間のことである。もしかしたら、会計検査院の会計検査が怖かったのだろうか。それは、そうだろう。官庁というものは、会計検査院が怖いに決まっている。「心のノート」との連続性を断ち切りたかったのだろうか。しかし、それは名称を変更しただけであって、中味はまったく変わっていない。非人間的で不道徳なHayao Kawaiとは 訣別したいということを意味しているのだろうか。



 今の子どもは、かわいそうだ。地域社会での大人や子どもとの関係が希薄になった。人格を通して、近所のおじさんやおばさんから教えてもらうことも稀だろう。子ども同士で泥まみれになって遊ぶこともない。外出するのは、せいぜい塾通いのときだけだ。遊びといえば、コンピュータ・ゲームだろう。それならば、せめて考える力を身につけてもらおうではないか。そうすれば、自分の力で道徳性さえも獲得することが可能になるかもしれないのである。電車の中で人をたたき起こしておきながら、我関せずとばかりHayao Kawaiの『心理療法序説』の書名をひけらかすように読んでいた大学生(「冷血動物著『心のノート』」December 24, 2013)は、考える力が欠落しているのである。Hayao KawaiやDaisaku Ikedaが不道徳なの、やはり考える力がないからである。
(青地部分は、追加事項)

2014年1月1日水曜日

さくら花

さくら花ぬしをわすれぬものならば吹き来む風に言伝てはせよ