人間的な交流に背を向ける
ユング心理学(Jungian Psychology)は、人と人とのコミュニケーションに背を向ける心理学である。人と人が対面する。その間に、何かが介在する。人と向き合うときに、日本の古代の帝王のように、衝立か御簾を間において対峙しているのである。ここで衝立か御簾とは、集合的無意識とか元型とかと呼ばれる訳の分からないありもしない素っ頓狂な観念である。従って、ユング心理学においては、人と人との触れ合いは皆無である。
このようなユング派の河合隼雄(Hayao Kawai)が、道徳の副教材「心のノート」を作成した。そのとき、押谷由夫という人物も「心のノート」作成の協力委員のひとりだったと思う。昨年から今年にかけての「心のノート」の改訂版の作成にあたっても、中心的な役割を果たしている。押谷由夫という人物は、河合と考え方が似ている人物なのだろう。河合ファンであるかもしれない。だから、押谷由夫もそうであろうし、「心のノート」も「私たちの道徳」も、その執筆者達はおしなべて河合隼雄的な考え方や生き方をしている人たちなのだろう。
要するに、「心のノート」も、その後継版「私たちの道徳」も、あの不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄色、ユング心理学の色彩に染まっているのである。ということは、人と人とのコミュニケーションができない人物達によって、「心のノート」も、その後継版「私たちの道徳」も執筆・作成されたということである。「心のノート」や「私たちの道徳」の執筆者が、自分自身の経験に基づいて書いたものではないということである。観念から導き出された考えを著しているにすぎない。日常のちょっとしたつまづきを経験したことによる心の痛み、苦しみ、悲しみも何もない。他者と心の関わりを持ったことから生ずる喜びや幸福感もない。他者とのコミュニケーションを体験できない人物が執筆した「心のノート」や「私たちの道徳」を、子ども達に配ってもなんになろう。無益であるどころか、むしろ有害であろう。愛を知らなかった夏目漱石の恋愛を扱った小説を(例えば、『それから』などを)、恋愛について学ぶつもりで読んでみたところで、何の足しにもならない。むしろ害になるばかりである(「愛を知らずして人生が語れるか、心の問題を論じることができるか」2月7日付け参照)。
僕は、「心のノート」の後継版「私たちの道徳」が、この4月から日本の子ども全員に配布されるのを阻止しようとしている。ところが、薄っぺらな愛国心の持ち主であり(「不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄が作成した『心のノート』の後継版によって日本人のアイデンティティを確立するのか」2月4日付け参照)、精神年齢が子どもの年齢に等しい(「内なる悪を同化すれば、それは即ち悪魔である」2月23日付け参照)安部晋三の内閣の支持率が一向に下がらず、国会も安部晋三内閣を退陣させることができないため、2月28日には2014年度の予算案が衆議院を通過しそうなのである。そうなると、「私たちの道徳」の配布が確定したことになるだろう。ちょっと絶望的な気分になってきた。
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