2014年2月7日金曜日

愛を知らずして人生が語れるか、心の問題を論じることができるか

愛を知らずして人生が語れるか、心の問題を論じることができるか

 夏目漱石(Soseki Natsume)の小説の恋愛を扱ったものに登場するヒロインには、実在感がない。『三四郎』の美ね子(フォントがない。しめすへんに、爾と書くのではなかったか)にしても、『それから』の三千代にしても、『門』のお米にしても、『こころ』のお嬢さんにしても、その息づかいが感じられないのである。おそらく夏目漱石は、愛を知らなかったのだろう。漱石が小説で描いた女性は、たぶんイギリス文学等を読み込んで形成された女性像ではなかっただろうか。それを日本風に書き直しただけだ。観念のみによって紡ぎ出された女性の姿なのである。個人的な経験の裏づけが全くない女性像なのである。だから存在感がない。
 愛を知らない者は、文学者・芸術家になる資格はない。それとともに、愛を知らない者は、心理学者にもなる資格はない。ユング派の河合隼雄(Hayao Kawai)も氏原寛(Hiroshi Ujihara)も、愛を知らないのだろう。愛を知る人が、日本臨床心理学会で、子どもに対して自分が行った心理検査の取り扱いの非人間性を批判されると、かんかんに怒って学会を飛び出して、心理臨床学会などという変な学会を立ち上げるだろうか。2度も詐欺犯罪(ウソツキ退職)をなした者が、愛を知っているわけがなかろう。また、2千人以上もいると考えられる教え子の誰ひとりとして超有名人になったKawaiの思い出話を語りたがらない。Kawaiは、実に愛に遠い存在であった。冷酷で非人間的であった。Hayao Kawaiが、フルートの演奏会を開いていたことを覚えておられるだろうか。心理学関連の自著が売れに売れた。すると、たちまち、俺はフルートも吹けるのだぞと、演奏会を開催する。どうだ、なかなか芸術的だろう、というわけである。まったく、こいつのやっていること、考えていることは訳が分からない。それで、そのフルート演奏は、どのような演奏だったのか。そんなことは聴かなくても分かる。ひどい演奏であった。聞くに堪えない演奏であった。小学校の学芸会の演奏よりもひどかっただろう。愛を知らない者は、芸術にとって門外漢である。芸術にとって、異邦人みたいなものである。
 Hayao Kawaiの弟子のHiroshi Ujiharaも、Kawai同様に愛を知らないにちがいない。それはそうだろう。集合的無意識とか元型とか、訳の分からないありもしないものにとりつかれていては、目の前の生身の人間が、遥かかなたの手の届かないところに遠のいてしまう。ユング心理学とは、愛のない世界で戯言を並べている心理学である。そのUjiharaが、作家になりたいと心理学関連の著書の中で述べていたのである(氏原寛著『カウンセリングの枠組み』ミネルヴァ書房刊)。愛を知らぬものが、文学者になることは不可能である。その上、Ujiharaの文章を、拾い読みでもいいから読んでみるがいい。中学生の作文かと思うほど稚拙なひどい文章なのである。音痴がテノール歌手になりたいと公言しているようなものである。Ujiharaが作家になりたいと公言していたのは、少なくとも2・30年前のことであるが、Ujiharaが作家になって作品を発表したという話は聞いたことがない。ただの訳の分からない戯言だったのである。もっとも、愛を知らない、文章が下手糞だということであれば、作家になれるはずもない。
 偉大な芸術は、個に徹することによって優れた芸術になったのである。逆説的に聞こえるかもしれないが、個に徹することによって普遍性を獲得する。ユング心理学のように普遍と間違って考えているのもの、集合的と誤って看做しているものに根拠を置いてしまったら芸術の創造ができるはずがない。従って、村上春樹や宮崎駿は偽者である。
 不道徳で非人間的で、愛を知らないHayao Kawaiに道徳の教科書の前身である「心のノート」を作成させるとはなにごとか。影の元型(内なる悪なるもの)を自我が取り込んでしまうユング派の親玉に道徳の教科書の前身である「心のノート」を作成させるとはなにごとか。絶対に許さぬ。Shinzo Abe。Hirobumi Shimomura。子ども達に、多額の税金を使って有害図書を配布するな。そんなことをしたら、叩き殺してやるぞ。

0 件のコメント:

コメントを投稿