2013年9月9日月曜日

昔話

子どもの頃、昔話を語ってくれたのは、父だった。仕事に疲れた眠い目をこすりながら、話していたのだろう。猿蟹合戦、因幡の白兎など。「うん、うん」と相槌を打ちながら、いつの間にか深い眠りに落ちていた。もしも子どもがいたら、やはり昔の父のように、子ども達に語り聞かせてあげたい。もう、それも叶わぬことになってしまったが。
手なし娘という話が好きである。数々の苦難の末に、手なし娘は、赤ん坊を背負って野山をさまよう。喉が渇いて、谷川の水を飲もうとして、背中の赤ん坊がずり落ちて川に落ちそうになる。「あっ」と思って、ない手を伸ばして赤ん坊を抱きとめようとした瞬間に、ないはずの手が生えてきて、しっかりと赤ん坊を抱きとめていた。たれこめた真っ黒な分厚い雲の隙間から、天使の歌声が聞こえてきそうな場面である。その歌は、やはりバッハの管弦楽組曲のアリアがふさわしい。

僕がユングを批判することの原点は、昔話にある。ユング派こそ、昔話からその思想を引き出してきているではないか、と思われるかもしれない。しかし、だからこそ昔話を拠り所にするのである。昔話をユングの手から取り戻さなければならないのである。

音楽の世界では、昔話に匹敵するのは各国の民謡だろう。ロシア民謡、アイルランド民謡、ナポリ民謡、そしてポーランド民謡。ポーランド民謡では、「春が呼んでるよ」が好きだ。一見、軽やかで明るい曲に見えるが、背景に深い悲しみをたたえている。この悲しみは、団伊玖磨の「花の街」の背景にあるものと共通するものだろう。それでいて、端正な美しさをたたえているのは、両者に共通するところである。

日本の民謡では、好きなものはないのかというと、そうではない。「姉こもさ」は、秋田県の民謡である。これは、女性しか歌えない。しかも難曲である。古い日本の心の風景を感じさせる。「こきりこ」は、富山県の民謡である。平家の落人が、自らの失意・挫折感を慰撫するために、自然発生的に生まれたものであろう。

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