(旧版の「ユング心理学批判」を読んでいた人の中で、次に僕が何を言おうとしているのか、ある程度見当がついていた人もいるかもしれない。そうだ。その通りだ。S・フロイトの失神に関わることである。人の心を癒してやろうと考え、その考えを実行に移すとき、その人の精神は崩れ去って行く。これは、昔話から導き出したものである。フロイトの失神をこのように捉えたのは、僕が初めてではないかと思う。そして、フロイトの後継者たちも同じ病を引き受けなければならなかったのである。それが、失神として発現するか否かは別としても。フロイトの後継者たちとは、あらゆるカウンセラー・精神科医のことである。)
芸術に深く関心を寄せ
そして
芸術を食い殺す
実に不思議なことであるが、ユング派になると俄かに芸術に興味・関心を持ち出すようなのである。それまでは芸術とは無縁であった者までも、芸術が分かったような顔をする。ユング心理学が、芸術創造の源泉を突き止めたのだと不遜にも考えていることと関連があるのだろう。河合隼雄がフルートの演奏会を開いていたことを覚えておられるだろうか。河合がいつからフルートを吹くようになったのかは知らない。ユンギアンになる前からかもしれないし、ユンギアンになってからかもしれない。いずれにせよ、演奏会を開くようになったのはユンギアンになってからのことだろう。ここが不可解である。心理学関連の図書の著者として有名になり、ちやほやされるようになった。そのとたんに、おれはフルートも吹けるのだぞ、どうだ、なかなか芸術的だろう、とばかりに演奏会を催す。これも河合の異常心理・異常行動のひとつだろう。河合はフルートなんか吹いていないで、法螺だけを吹いていればよかったのだ。それでは、河合の演奏は、一体どのような演奏だったのだろうか。
もしも河合のフルート演奏がある程度のレベルに達していたのなら(なにも超一流のすばらしい演奏である必要はない。ほどほどのレベルであればよい)、音楽界や音楽業界は放っておくことはできないだろう。文化庁長官が、しかもユング派心理学のわが国への紹介者であり第一人者が、すばらしいフルート演奏をしているのである。とても無視できないではないか。「ぜひとも、わが町の文化会館で公演していただきたい。町の青少年にも聞かせてやりたい」という依頼が殺到するであろう。何といっても文化庁長官なのである。やがてはCDアルバムの制作の話も持ち上がるだろう。そして、外国からも公演の依頼が届くようになるであろう。
ところが、どうしたわけか、そんなことにはならなかったのである。これは河合のフルートの演奏がいかにひどい演奏であったか、ということである。学芸会並みの演奏であったのである。これは演奏のテクニックの話ではない。あくまでも音楽性・芸術性についての話である。のこのこと、河合の演奏会に出かけて行った連中は、「こんなことなら、子どもの学校の文化祭でも見に行っていたほうがよかった」と後悔していただろう。音楽の演奏も芸術創造のうちだと考えれば、河合がいかに芸術やその創造に無縁な者であるかが了解されるであろう。おかしいではないか。ユング派は芸術の創造の源泉を突き止めたのだと考えているのではなかったか。その上、ユンギアンになると、どうした訳か芸術に対して並々ならぬ興味を抱くようになるではないか。そうすると、ユンギアンの中からすばらしい芸術家が続々と現われてくるはずではないか。それなのに、ユンギアンである河合のフルート演奏が学芸会レベルのものであるのなら、ユング派の考え方は出鱈目であることになるではないか。ユング派は、どうしたわけか芸術に深い関心を寄せてはいるが、やつらは芸術の門外漢なのである。河合の弟子の氏原も、ひどい下手糞な文章を書いておりながら、心理学関連の著書の中で「作家になりたい」と書いている(氏原寛『カウンセリングの枠組み』)。ユング派の芸術に関する理解が、いかにいかがわしいものであり偽物であるか、ということである。
カウンセラーとか心理療法家と呼ばれる職業の人々には、注意しなければならない。避けなければならない。できるだけ関わりを持たないようにしなければならない。S・フロイトには、何人かの精神分析仲間と懇談中に、突然わけもなく失神するという症状があった。これによってフロイトは、深く悩んだにちがいない。この失神という奇妙な症状による苦悩が、フロイトが精神分析を創始し発展させる原動力になっていたことは疑いない。フロイト自身は弟子への手紙の中で、何か同性愛的なものが原因ではないかと思っている、と書いている。やはり精神分析の一派のハインツ・コフートの学派では、理想化転移によるものと捉えているようである。この失神が、フロイトが精神分析を始める前からあったものなのか、それとも精神分析の創始以後に生じてきたものかは知らない。しかし、精神分析を始めてから、却ってひどくなった可能性があるのではないだろうか。それはフロイトのように、人の心をケアしてやろう、人の心の病を癒してやろうと考え、その考えを実行に移したとき、癒してやろうと考えた人自身の精神が荒廃し崩れ去るのである。また、C・G・ユングが精神病であったことは、ユンギアンでさえ言っていることである。たとえ傍目には普通の生活を送っているかのように見えたとしても、心は荒れ果てている。それは、人の心を癒してやろうとすること自体が、何ものかに対する冒瀆だからである。日常において、親しい者同士で慰め合うのとはわけが違う。僕の知り合いのAさんの父親は、精神科医である。精神病院の勤務医であるようである。そのAさんの父親は、日頃Aさんに、「お前が阿呆になったら、いくらでも世話してやるぞ」と言っているそうである。この場合の「阿呆になる」とは、精神病者になるということであろう。Aさんの父親は自分の仕事を、あたかも刑務所の看守のように考えているようである。Aさんの父親の人生に、いったい何の意味があるだろう。そんな人生なんか、生きるに値しないではないか。ところが、それからAさんは、本当に発病してしまった。Aさんの父親の言葉が、まるで予言ででもあったかのように。どうも不思議である。そして恐ろしい。これは何かの間違いではないだろうか。運命の女神が、親と子とを取り違えたのではないだろうか。精神科医などというものの多くは、だいたいこのようなものである。冒瀆する者の精神は、干からびている。壊れてしまっている。旧日本軍の731部隊の恐ろしい研究者たち(実に冒瀆的である)は戦後、大学や研究機関に戻って、中にはどんどん出世した者も多い。大学の学長になった者もいる。実に不思議なことである。やつらは、自分の犯した罪の償いをしていない。罪の償い、そのツケを払っていないにもかかわらず、社会的には羽振りがよくなる?おかしいではないか。もしかしたら、Aさんやその父親の場合のように、子や孫などの親族が代わりにツケを払っているのだろうか。河合隼雄も同様に、ウソツキ退職で不当に得た利得を元手に、いわば「ベストセラー作家」の地位を得、京大教授になり、中教審など各種審議会の委員・座長になり、文化庁長官になった。ウソツキ退職について、その罪の償いをしていないにもかかわらず、どんどん出世していった。これもおかしい。文化庁長官在職中に、引っくり返ってバタン・キューでツケを払ったということだろうか。それとも河合隼雄の場合は、トシオが隼雄のツケを支払うことになるのだろうか。興味のあることである。これからはトシオの動向を注視していたほうがよさそうである。フロイトやユングをはじめ、心理療法家・カウンセラー・精神科医・神経科医などと呼ばれている人々は、自分自身の精神的な異常さを何とかしたい、と考えてその職業に就く。その上、それで生活費を稼ぐことができれば一石二鳥ではないか、というわけである。何か大きな災害が発生したとき、被災者の心のケアが必要だとマスコミを通じて主張する者がいる。学校現場でもカウンセラーを配置するべきだと言う者がいる。しかし、被災者やいじめられっ子などにとっては、それは泣きっ面に蜂である。ただでさえ苦しんでいるのに、さらにその上、蹴飛ばされるに等しいのである。カウンセラーの精神自体が崩れ去っているからである。人の心をケアしてやろうなどと不遜なこと、冒瀆的なことを考え実行するからである。心理療法家は、これからクライエントを癒してやろうと考えるとき、自分の心が崩れ、奈落の底に堕ちていこうとしているのに気がつくはずだ。それに気がつかないとすれば、よほど鈍感である。よくも心理療法家なんかになろうとしたものだ。したがって、心理療法家・カウンセラー・精神科医・神経科医という職業自体成り立つことができない。社会的には、そのような職業を認めてはいるけれども、本来認知してはいけなかったのである。例えば、犯罪者を考えてみれば分かりやすい。犯罪者は何らかの犯罪を行ったという事実だけによって精神が崩壊する。検挙されたかどうかは関係ない。外面的には何食わぬ顔をして、普通の生活をしているかどうかも関係ない。さらに、人をマインドコントロールしている者も同様である。人の心を操作することは、極めて冒瀆的な行為である。そのような冒瀆的なことを行うこと自体によって、精神が荒廃する。「精神が荒廃する」とは、情動面のみならず、理性的な側面においても、である。英語のハートやエモーションのみではなく、マインドやリーズンにおいてもそうである。そのような者達によって得られた科学的な知見が、人類の福祉にとって何の役にも立たないことは明らかである。冒瀆的なことを行って、必然的に精神が荒廃してしまう、心理療法家・カウンセラー・精神科医・神経科医などという職業を認めてはならなかったのである。精神が荒廃し、崩壊することは、喜怒哀楽の真の感情から遠ざけられることである。たとえば、喜びを感じる場面において、一応喜びらしきものを感じているかのようではあっても、本当の喜びを感じることができない。悲しみも本物の悲しみを感じることができない。幸福も、やはり真の幸福を感じることができない。つまり、人間の感情をもつことができない。理性的な側面においては、理性による正しい判断ができない。これでは生きている意味がない。死んだも同然ではないか。
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