2013年9月5日木曜日

悪魔君はセルフサービスがお好き?(旧版から)

 毎年、夏休みともなると、河合隼雄は研修旅行と称してスイスのチューリッヒかアメリカのどこかに渡航して、外国人のカウンセリングを受けていたであろう。これは、河合の弟子や又弟子についても同じである。カウンセリングといっても、ロジャーズ派のような、生やさしい、かわいらしいものではない。「そんな風にしては駄目だ。このようにしなさい」、「A社に就職してはいけない。B社に就職しなさい」、「結婚するなら、C子さんではなく、D子さんにしなさい」、「え?何だって?B社に就職したくないだと?D子さんと結婚するのはいやだと?ほう。すると、何かね?君は、このわしに反抗するのか」と、このようにすさまじいカウンセリングを“外国人から”受けていた者に、日本の子ども全員に配付される道徳の副教材「心のノート」を作成させていたのである。
 ユング心理学は悪魔の心理学である(これについては、「あるがままに任せよ」参照。悪魔の心理学とは、悪魔の、悪魔による、悪魔のための心理学ということである)。詐欺犯罪を少なくとも二度行った河合は(ウソツキ退職)、悪魔に頼るしか仕方がなかったのだろうか。悪魔は悪を否定しない。ユング派も悪を否定しない。しかし、どんなに精神的な危機に瀕しようとも、悪魔に頼ってはもうおしまいである。河合やその弟子のようなやつらを、社会に置いておくわけにはいかないではないか。やつらが人間の社会でうろうろしていると、恐くてしようがない。やつらは、山奥かどこかの無人島にでも行って、ひとりで暮らしておればよいであろう。マンダラでも出現しているのなら、絶海の孤島でひとり悦に入っておればそれでよいわけだ。
 ところが、河合を見れば分かるように、ユング派は社会のあらゆる出来事に手を出すし口も出す。しかも、すさまじいばかりの出世欲で権力の座につきたがる。悪魔がこうなのである。超越的な世界と関わりを持つ者が、悪を否定しないことほど恐ろしいものはない。ヤクザやマフィアよりもはるかに恐ろしい。人間社会にいてくれては困るのである。悪魔=ユング派を叩き潰すために立ち上がらなくてはならない。だいたいユング派のひとりやふたり、叩き殺しても殺人罪にはならないと思う。殺人とは、人間の生命を奪うことだからである。
 悪魔との戦いにおいて、ミルトンの失楽園でも、バニヤンの天路歴程でも、その戦いがクライマックスに達したとき、どうしたわけか突然、悪魔の手は萎え、足が萎えてしまうのである。そして、悪魔は自ら滅び去っていく。不思議なことに、失楽園でも天路歴程でも同じなのである。どちらもキリスト教の文化圏の作品だからだろうか(両方ともイギリスである)。確かに、このような(ユング派のような)悪魔は古来、日本・東洋にはいない。鬼や山姥とは異なる。実にキリスト教的な(キリスト教文化圏の)悪魔ではないか。われわれは、悪魔というものがこの世にいることを知ってはいるが、それが具体的にどのようなものかはイメージを思い描くことは難しかった。しかし、今は明確にイメージすることができる。悪魔とはどんなものか知りたければ、ユングを思い出せばよい。河合隼雄を思い起こせばよい。村上春樹を考えればよいのだ。悪魔とは、やはり、いかにもそれらしい顔をしてはいなかった。一目で悪魔とわかるような様子はしていなかったのである。
 悪魔が自分自身の首を締め、自ら滅んでいくとはどういうことであろうか。ユング派を滅ぼす人(英雄)は、ユング派の中から現れてくるということである。残念ながら、僕はナポレオンになる資格がなかったようである。それならば、悪魔との戦いが行われる戦場とは、どこであろうか。それは、ユンギアンの夢の中である。長い歴史において、悪魔は時々ちょろちょろと現れ出ては、自らの手で自らを滅ぼしてきていたのである。もしも現代の悪魔が自滅することがないとすれば?その時は、人類が滅亡する時である。

2012728日)

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