2013年9月2日月曜日

満ち足りた気分で仏像を彫ってはいけない(旧版から)

満ち足りた気分で仏像を彫ってはいけない

 ユンギアンになると、どうした訳か俄然芸術に興味を持ち出す。そう言えば俺は、若い頃、芥川龍之介や夏目漱石に読み耽っていたことがあったなあ、終日、モーツァルトやバッハに夢中になっていたものだ、と思い出すのである。それで考える。俺は芸術の真の理解者なのではないかと。しかし、そんな経験は誰にでもあることなのだ。こうしてユンギアンが世に蔓延るとともに、偽の芸術愛好家が増えることになる。
  河合隼雄の弟子である氏原は、作家になりたいと自分の著書で書いている(氏原寛著『カウンセリングの枠組み』ミネルヴァ書房刊)。中学生の作文に毛の生えたような文章を書いておきながら、作家になりたいそうである。これは仲間うちや身内の間で話していたのではない。カウンセリングに関する書物の中で、公言していたのである。執筆当時から、既に10年以上は経過しているであろうが、いまだに芥川賞を受賞したとか、新作の小説を発表したとかというような話は聞いたことがない。要するに、気違いのたわ言であった。もっとも、何の文学的素養もない、芸術的な薫りもない文章を書いているのだから、作品を発表するなど不可能であろう。出版社の心理学担当の性悪な編集者にでもおだてられたのだろうか。「いやあ、蛆虫先生の文章はすばらしいですなあ。名文ですなあ」と。豚もおだてりゃあ、木に登る。蛆虫もおだてりゃあ、空に舞い上がる。(これに反して、河合隼雄の文章はうまいかもしれない。だが、文学的には何の価値もない。)超越的な世界からの賜物をこの世界で利用してやろうなどと考えるから、このような情けないことになるのだ。
  ヘルマン・ヘッセは、CG・ユングと出会ってから、ろくな小説を書けなくなった。ユングがヘッセの文学に多大な関心を寄せてしまったからだろう。創造の泉は生き物である。泉はどのようにして湧き出でているのか、を突き止めようとして掘り始めるとき、泉は涸れる。ヘッセは精神的な“充足感”と不安からの解放と引き換えに、創作力を手放した。
  村上春樹は、大変な人気を博しているが、真の文学者ではない。河合のファンでありながら、真の芸術家でもあることはありえない。生前に絶大な人気があっても、死後に完全に忘れ去られてしまう偽の芸術家は、いくらでもいる。芸術家が、創造の扉を開く万能の鍵を手に入れたのだと有頂天になったとき、すべての扉は永遠に閉ざされる。芸術家の創作能力は息絶える。芸術家がユンギアンならば、その鍵は無意識(集合的無意識)や夢にあるとみなすだろう。その推察が正しいか否かは、どうでもよい。仮に正しいとしても、このことは当て嵌まる。その万能の鍵は、ただの鉄くずになってしまって、もはや用をたさない。創造の扉は、もはや開けることができなくなる。創造の源泉を特定することに成功したのだと確信すれば、その源泉は涸渇するのだというジレンマがあるのである。CG・ユングなどというキチガイじみたクソ爺が出てきたからいけないのだ。やつの考え方が芸術家の間ででももてはやされるものだから、現代の芸術は不毛になってしまった。現代は、芸術の暗黒時代である。
  仏師が芸術家たらんとすれば、満ち足りた気分で仏像を彫ってはいけない。芸術を生み出すのは、調和でも充足でもない。それとは対極的な何かである。たとえ調和や充足を表わしている芸術作品であるとしても、その創作のエネルギーは、調和や充足ではない(この場合、仏像の宗教性については度外視する。)仏師が一流の芸術家ならば、これから彫る仏は、一体どこからやってくるのだろう、ちゃんと俺の目の前にその姿を現わしてくれるのだろうか、と訝り、一抹の不安にとらわれながら彫り始める。偽者の芸術家は、創造の扉を開ける鍵を手中にしているからと意気込んで創作に取りかかる。しかし、その偽者の仏師が彫った仏像は、心の眼をもって見れば仏の顔をしてはいないだろう。芸術の創造において、万能の鍵を手に入れようなどと安易なことを考えてはいけない。創造の泉を意識すれば、芸術は生み出せないのである。
  注意しなければならないのは、偽の芸術愛好家たち(ユング派)は、芸術を駄目にし、最悪の場合、芸術の息の根をとめてしまうおそれがある、ということである。つまり、この偽の芸術愛好家たちは、この芸術作品は無意識(集合的無意識)とどのような関わりがあるだろうかとか、元型のどんな作用が作品に働いているのだろうかとかというような視点でもって芸術作品を鑑賞するだろう。このような視点を持つことそれ自体が、鑑賞者をして芸術から遠ざけることになるのである。これは何も芸術だけに限ったことではない。人生全般において、そうなのである。ユング派固有の基本的態度や考え方を身につけてしまったならば、愛や喜び、悲しみや苦しみなどから人を遠ざける。ユング派独特の基本的態度や考え方をもって人生を見るならば、人生そのものが借り物になってしまう。それは、人と人生の様々な事象との間に、薄い被膜、どんなに破ろうと努めても決して破れない隔壁のような膜ができたようなものである。
2011110日)


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