2013年9月2日月曜日

砕け散る貝の火(旧版から)

砕け散る貝の火

 宮沢賢治に『貝の火』という作品があります。まだ若かった頃、私はこの童話を読んで強烈な印象を受けました。
  兎の子のホモイは、ある日、溺れかけているひばりの子を助けました。その功績によって、鳥の王からホモイに「貝の火」という宝珠が贈られます。ホモイは有頂天になります。貝の火が、あまりにも美しく、自分が偉い人物(兎ですけれども)になったことを表わすものだったからです。みんながホモイに敬意を表します。そのうちに、ホモイの心の中に傲慢な気持ちが現われてくるようになりました。弱い者を虐待したり、悪賢い狐の誘いに乗って、結果的に狐の悪巧みに荷担したりするようになります。持ち主の心を映し出す鏡のような働きも兼ね備えている貝の火は、それでも暫くのうちは、美しく燃えています。最後の決定的な破局を迎える直前には、特に美しく輝いていました。狐の悪事が次第にエスカレートしていって、その残虐極まりない行いに対して、ホモイがそれを制止することができず、却って狐に威されて逃げ出してきた時、貝の火は砕けて飛び去ってしまいました。そして、その粉がホモイの目の中に入って、物が見えなくなってしまいました。
  以上がこの童話のあらすじです。最後のところで、ホモイの貝の火が砕け散ったことを見ていたふくろうが、「たった六日だったな。ホッホ。たった六日だったな。ホッホ。」とあざ笑って言う様子が私の心に鮮明に焼きついています。
  これは恐ろしい話です。宗教的な体験の恐ろしさが良く表われていると思います。神に出会う経験(キリスト教の牧師が、「私は、○○歳の時に、イエス様にお会いしました」と言うときの、その経験。仏教で言えば、悟りや涅槃。)は、それに至るまでの道のりが遥かで厳しいものなのですけれども、そこに至り着いてから(神に出会ってから)の後にこそ、さらに自分自身を厳しく律し続けていかなければならない、ということを暗示しているのではないでしょうか。超越的な経験をしたのだから、それですべてが楽になる、というものでもないようです。むしろ、それからが大変なのかもしれません。私は、前回のPARTⅢで、超越的な体験について薄手の陶磁器の例えを引き合いに出しましたが、それにはこの貝の火のイメージの影響があったのかもしれません。ひとたび神を垣間見たとしても、それからもずっと傲慢さや俗物根性に細心の注意を払っていなければならないのです。超越的体験をした者が、もしも傲慢さや俗物根性の虜になってしまったら、貝の火は砕け散って、どこかに飛び去ってしまうのです。
  ここで、とても気がかりなことが一つあります。神を垣間見るような宗教的体験をした者が、傲慢さや俗物根性にとらわれても、それで直ちに貝の火が砕け散るのではないということです。時々、傲慢不遜な心のありようによって、一点、曇りが生じたりすることもありますが、また逆に、却って美しく輝いているように見えることさえもあるのです。これは実に不思議なことなのですが、現実がどうもそういうことらしいのです。貝の火の持ち主の心の変化(原因、つまり傲慢さや俗物根性へのとらわれ)と、貝の火の様子・状態の変化(結果、つまり貝の火が砕け散ってしまうこと)との間には時間的な開きがあるようなのです。賢治の童話の世界では、その時間差はわずか数日のことなのですが、実際には、「年」という単位なのかもしれません。もしもその単位が「数十年」という長いスパンだとしたら、これは恐ろしいことになります。その間に、どんなことになるのでしょうか。超越的な経験をしておりながら、傲慢さや俗物根性にとらわれて、折角の超越的経験の本質が既に変質してしまっている者が、悪事をなす時間を与えてしまうことになるのではないでしょうか。その悪事は、「わしは世の愚民どもの救済者である」という御旗を掲げてなされるのです。学校を舞台にして凄惨な事件が起きた時、心の痛手を被った子供たちに関して、日本のユング思想の第一人者が、「誰でもが治る可能性を持っている」と、ユンギアンとしては訳の分からぬ発言をしたのは(個性化などというものは誰にもできるわけがない)、このことと関係があるのではないでしょうか。ユンギアン達はこの思想がなければ自分はこの世でやっていけないと考えているがゆえに、他の人々はどうしてこのような結構な思想の信者にならないのだろうといぶかしく思っています。これは、まさにカルト的な新興宗教教団の信者の心性と同じものです。ですから、その時間差の間に何をしでかすか分からないのです。
  さらに、この時間(原因とその結果が生じるまでの時間の開き)において、偽物の超越的経験をした者がその子分を増やし、その子分たちがまた新たに子分をどんどん増やし続けているとすれば、これは一体どういうことになるのでしょうか。何か取り返しのつかないことが、臨床心理学界において生じているのではないかという気がしてなりません。
2006223日)


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