2013年12月28日土曜日

考える力を育てる(再掲)

青いフォントは新たに書き加えた。第5段落と第6段落の2箇所。

考える力を育てる

 小泉純一郎(Junichiro Koizumi)は、歴代の総理大臣の中でも、人気度の高い首相であると言ってもよいだろう。小泉が首相であったとき、自身の年金問題について国会で追及されたことがあった。そのとき小泉は、次のように答弁した。
「人生いろいろ。会社もいろいろ。」
議場は大爆笑の渦に巻き込まれた。小泉の人気の秘密の一端を、垣間見せてくれる答弁である。これは、国会中継としてテレビやラジオで放送された。国会の議場は、真剣勝負の場であるはずである。われわれが通常、会議において発言するよりも、国会での発言は何十倍もの重い意味を持つものであるはずである。総理大臣が国会でふざけた発言をすることが許されるはずがない。「人生いろいろ。会社もいろいろ」とは、浜口庫之助が作詞作曲し、島倉千代子が歌って大ヒットした曲の歌詞をもじったものである。これが、一国の首相が国会で行う答弁か。あまりにも幼稚で情けないではないか。ものを考える力のない者が、総理大臣になっていたのである。しかも、人格の卑しさもよく表れている。歴代の日本の首相で比較的立派でまともな人物と思われる人を、2・3人思い浮かべてみるがいい。その首相は、人気があったか。僕が思い浮かべた首相は、人気がなかった。つまらぬ人物、過去に犯罪を犯したような人物、ものを考える力のない人物が、えてして人気者になることがある。僕が思い浮かべた立派でまともな首相は、人気はなかったけれども、小泉のような人をおちょくったようなことは言わない。あのとき、国会の議場で笑い転げた議員は、バッジをはずせ。選挙のとき、投票者はもっと真剣に候補者の人物を見極めないと大変なことになる。小泉や安部晋三(Shinzo Abe)のような、ふざけた首相が誕生してしまったではないか。しかも、この国民をおちょくる首相が、結構人気が高いとは、どういうことだろう。
 子どもの遊び仲間の間では、剽軽な子に人気が集まるという傾向がある。小泉純一郎は、その首相版だ。あまりにも情けないのではないだろうか。こうして空っぽ頭の総理大臣が、日本を駄目にしていくことになった。小泉進次郎(Shinjiro Koizumi)とかいう小泉純一郎の息子が、次期首相候補に名を連ねているようだが、父親譲りの軽佻浮薄、空っぽ頭のふざけた人気者に、またまた日本の運命を委ねてしまうという愚挙を繰り返してはならない。
 創価学会の池田大作(Daisaku Ikeda)は、収集が趣味である。収集と言っても、記念切手やコインではない。外国の勲章なのである。外国の勲章?それは立派ではないか、と考えてはいけない。外国のほうから贈呈しますと申し出てくれたのではない。貧しい信者から巻き上げた金でもって、勲章を買い漁っているのである。それで悦に入っている。実に幼稚な精神・思考力ではないか。子ども時代に既に、考える力の発達が停止してしまったのではないだろうか。不思議なのは、貧しい信者がどうして怒らないのかということである。
 河合隼雄(Hayao Kawai)は、ある著書(「カウンセリングを語る」だったかもしれないし、別の題名だったかもしれない)で書いている。あるとき人から、「河合さんは、よく努力なさいますね」と言われた。それに対して河合は、「他にすることがないので、努力させてもらっている」と答えた。これを読んだ河合ファン、例えば、今までものを考えたことが一度もないような愚者の集まりである創価学会の会員は、「さすが、河合さんは言うことが違うなあ」と、ただただ敬服し、信仰の念を厚くしていたにちがいない。そりゃあ、言うことが常人と違うに決まっている。人間離れした、暖かい人間の血が通っていない、いわば化け物のようなものなのであるから。しかも、“日本ウソツキクラブ会長”を自任するという幼稚でふざけた野郎なのである。京都大学教授とは聞いてあきれる。考える力があるのか。河合俊雄(Toshio Kawai)といい、京都大学とは空っぽ頭の集まった最高学府か。
 そもそも努力とは、暇つぶし、すさびごと、遊びごとでするものではない。やむにやまれぬ、それこそ執念のような情念に突き動かされて行うものである。河合隼雄が本当に努力していたのなら、「私は真剣です。この心理学を日本中に広めなければならないのです。そのために私は命を懸けています」とでも言ってみればよかったのだ。しかし言えまい。そのくせ、すさまじいばかりに狂信的になる。これはいったい、どうしたことか。  
 “Jungian”やユングファンは、例外なく狂信的・盲信的になる。そして人にストーカー的な行為をさえ行うのである。彼らの狂信や盲信が、いかに内実のない空虚なものであるかは明らかである。狂信的な、創価学会のような“cult”の信者と同じような心性なのである。A大学でユング派による詐欺犯罪の被害に遭ったが、あのとき実行犯であったK教授は、ユング心理学の話をするとき、頬の筋肉をはじめ顔中の筋肉が緩み、眦は下がり、ほちゃほちゃとして、まるで初孫を見るおじいさんのような顔になっていた。なんとなく好きなんですねえ、と河合隼雄のファンになっていった人も結構いるのではないだろうか。これは、“sentimental”にすぎない。“sentimental”な感情か情感というものは、極めて危険な面をもっている。この“sentimental”については、後に機会があれば述べることがあるかもしれない。このような、あやふやな情感か情動によって、理性的に考えるのではなく、多くの人が恐ろしいユングファンになっていった。第二次世界大戦前夜に、多くのドイツ国民が、ヒトラーに心酔し信奉したのとまったく同じではないか。ユング派は、スイスのチューリッヒにあるというユング研究所で、おどろおどろしい秘儀(秘密の儀式)に耽っているのである。ユング派の“分析”(分析と呼ぶこと自体、おかしい)は、とりも直さず秘儀と呼ぶしかない。来る日も来る日も薄暗い部屋にひとり閉じ籠って、壁に向かって何やら訳の分からないことを、ぶつぶつ呟いていて、それで精神が健全になるわけがないではないか(教祖のC・G・ユングの個性化)。河合隼雄が人から「よく努力しますね」と言われたときに、人を馬鹿にしたふざけた受け答えをしてしまったのは、きっぱりと、「私はこれに命を懸けています」ということができなかったのである。ユング心理学が、いかにいんちきな邪教であるか、ということである。ふざけたやつらだ。
 大昔の人々は、生きていくために獲物をとる技術を磨かなければならなかっただろう。その技術を、弓矢の腕だとする。大昔の人々が、毎日、弓矢を射る練習をしていたかどうかは分からないが、とにかくその技術の向上は自分や家族、その属する共同体の死活問題であった。まさに命がかかっていたのである。この技術の向上は、河合のように暇つぶしで達成されるものではない。熱く燃え上がる炎のような情念によって成し遂げられるものである。河合隼雄も小泉純一郎同様、実にふざけた、人を馬鹿にした人物ではないか。(前に、大昔の弓矢の技術について、歴史学的・民族学的・民俗学的観点から見れば(民俗学は、ちょっと違ったかな)、僕の記述はおかしいという指摘を受けた。確かに間違っているかもしれない。しかし僕は、この箇所を削除するつもりはない。日本人は農耕民族である。獲物を求めて、弓矢などの武器を携えて山野を駆け巡っていた事実が大昔にあったかどうか、確かにわからない。だけど、この箇所の記述は、日本人の場合に限定しているわけでもない。たとえばヨーロッパ人の場合、弓矢の技術の向上は、それこそ“命を懸けて”努力をなされたのであろう。)
 現代のわれわれにとって、大昔の人の弓矢を射る技術に相当するものは何であろうか。それは、考える力であろう。思考力の程度が、生きるか死ぬかに関わってくる場合もあるであろう。したがって、子どもを育てるときには、いかにして子どもが考える力を伸ばすのを援助するかが重要になってくる。
 学校教育においては数学も大切であるが、それにもまして有効なのは国語(Japanese)の現代文である。ひとつの文章を丹念に読む。ゆっくりと何度も繰り返し読むことは、思考力を発達させる上で、王道だと思う。それは、もちろん良質な文章でなければならない。特に、ユング派やユングかぶれのした人の文章であってはならない。ユング派の思考法というものは、画一的で短絡的であるからである。そのくせ、何を言っているのかよく分からない。ユング派が基本におく立脚点自体が、あやふやなものだからである。従って、やつらの主張することは論理的ではない。感情でものを言っているからである。だから、何を言っているのか理解できない。読んでいると頭が痛くなってくる。こんなものを国語の教材に使ってはいけない。
 質の高い文章を、真剣勝負のつもりで何度も何度も読んでいると、初めに見えなかったものが見えてくることがある。このときやっと、筆者が本当に言いたかったことをつかむことができたのである。考える力は、このようにして身についていくものと考えられる。速読術は役に立たない。より多くの知識を得るためだけならば、それも悪くはないかもしれないが、考える力をつけるためならば、速読しても無意味である。
 学校教育においては、国語科の現代文の指導に優秀な人材を確保するように努めるべきだと思う。国語の指導者が考える力のない人だったら、子どもの考える力を伸ばすことは難しくなる。道徳教育を云々する前に、考える力の育成に努めるべきではないだろうか。「心のノート」を配布するよりも、国語科の充実に金をつぎ込んだほうが有益であろう。これを怠ると、人気者だが空っぽ頭の首相や国会議員が日本の進路を誤らせることになる。小泉純一郎や河合隼雄が人を馬鹿にしたふざけた発言をするのは、やつらの道徳性・倫理性がどうかということ以前に、やつらの頭の中が空っぽだからである。そのためには、第一に国語科の現代文、第二に数学科である。

(2013年12月18日付けで掲載していたものを、一旦削除した上で、再び掲載した。)

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