2013年12月14日土曜日

『ゲド戦記』とユング心理学(旧版から)

『ゲド戦記』とユング心理学(旧版から)

 最近『ゲド戦記』という少年少女向けの作品がアニメ映画化されたそうです。私は、まだ若かった頃、今からかれこれ20年位前の話ですが、この原作を一度読んでしまうと、もう二度とページを繰る気にはなれませんでした。私が読んだのは「影との戦い」でしたが、これは『ゲド戦記』の一部だったのでしょうか。それ以上詳しくは知らないのですが。


ストーリーは、完全にユング心理学をなぞったものでした。影(元型の影。shadow)からのすさまじい攻撃にさらされ、苦しめられていた主人公が、結局、影は私自身だ、と喝破した途端に、それまでの影の激烈さ・過酷さが嵐の海が急に凪ぐようにおさまった、というような話であったと思います。ズバリ、ユング心理学そのものです。


確かに精神分析においては、自己の内の奥深くに潜む悪なるものやおぞましいものを意識化することは大切なことだとされています。しかし、ユング派(精神分析の亜流)における悪なるものやおぞましいものの意識化とは、つまり影の意識化とは、自我がそれを意識化してコントロールするというようなレベルの問題を超えているのです。


たとえば、次のようなたとえ話を考えてみてください。あるところに小さな国がありました。その国は、常に山賊の来襲の脅威にさらされています。近くの山に山賊の巣があるのです。ことあるごとに、山賊たちが襲ってきては、国中を荒らしまわり、略奪していきます。そこでその国の王様は、軍隊を率いて何度も何度も山賊を攻撃しました。しかし、どうしても山賊の本拠を攻め落とすことができませんでした。そのうち、王国の民は疲弊し、経済は次第に衰退していきました。王国自体が傾きかけて非常に危うい状態になってしまいました。王様は、だんだん元気がなくなっていきました。そしてある日、いつものように浮かない顔でふさぎこんでいた王様は、いきなり膝をポンとたたいて、大声を出して言いました。「そうじゃ、山賊は私自身だ」と。あまりの声の大きさに傍で控えていた家来たちはびっくり仰天して、思わず顔を見合わせてしまいました。王様はと言えば、いつもの暗い顔もどこへやら、ぱっと明るい顔になってすっかり元気を取り戻しています。そして、ひとりでぶつぶつと呟いていました。「とうとう、わしは悟ったぞ。これはまさにコペルニクス的転回じゃ」と。それから急いで山賊の首領あての親書をしたためました。親書には、貴殿とともにこの王国を共同統治したい、と書かれていました。王様の使いの者が親書を山賊に届けると、山賊たちはすぐさま威風堂々と王様の居城に乗り込んできました。王様は、最上級の礼をもって山賊を迎え入れ、心をこめてもてなしました。そしてその翌日から王様と山賊の首領との共同による王国統治が始まりました。月日が流れました。王様は少しずつ、権力からはずされていきました。そしてその分、山賊の首領の権力が大きくなっていきました。やがて、王様の実権はすべて奪われてしまって、ただの飾り物のようになってしまいました。


ユング心理学における影の意識化とは、この愚かな王様のたとえ話のような意味での意識化です。つまり、自我(王)が影(山賊)をおのれ自身のうちに取り込んでしまうような意識化なのです。このような意識化と、無意識的なものを意識化してコントロールするという意味における意識化(精神分析本流のとりわけ自我心理学における立場)との間には格段の差があります。やはり、山賊は何が何でも平定して牢に入れておかねばならないのです。


ユング心理学における個性化の出発点は、このような影の自覚にあるようです。これはもう周囲の人々からすれば悪魔のようなもののように見えることでしょう。しかし、そうは言っても山賊(影)に関していえば、本来の山賊そのものとはちょっと違ってきているのではないかとも思います。自我は確かに山賊(影)によって乗っ取られたのですが、山賊自身にも何らかの外見的な変容が生じているのでしょうか。以前の山賊のようなストレートであからさまな悪ではなく、ちょっと妙な言い方になるのですが、外見的・表面的にはもっと洗練されたエレガントな悪になっているようです。王の居城に乗り込んで行って王国の共同統治者になったわけですから、いつまでも山賊の身なりをしているわけにもいかないのでしょう。さらに奇妙な言い方をすれば、マフィアが貴族化したのだとでも言いましょうか。だけど、それでも山賊はやはり山賊なのです。その本質において何ら変わりはありません。いや、貴族化したマフィアは、いかにもそれらしいマフィアよりももっと恐ろしいとも言えるでしょう。他者に対して、一見やさしそうな態度を示しているかに見えて、結果的には人の人格を平気で踏みにじるのです。これは、カルト的な団体につきものの共通の特徴です。自分達の思想こそが絶対であると信じ込んだとき、この思想がなければ自分はこの世でやっていけないと思い込んだとき、人はどんなに人に対して残酷になれるものなのでしょうか。自分達の思想に従わない者・反対する者に対して、それが彼らのためだ、という御旗のもとに自分勝手な“折伏”が行われ人格が踏みにじられるのです。


ところで、『ゲド戦記』に関してですが、この作品には何の芸術的価値もないと思います。ユングの奇矯な思想をなぞっただけの代物です。たとえどんなに沢山の人が読んだとしても、この評価は変わりません。『ハリー・ポッター』シリーズが、どんなに世界中の多くの人々に読まれようが、芸術とは言えないのと同じです。とにかく、ある作品に芸術的価値があるかどうかということと、多くの“同時代の”人が読んだり見たりするかどうかということとは別問題です。私も若い頃に夢中になって読みふけっていた吉川英治や横溝正史の作品が、どんなに多くの読者を獲得しても芸術作品として論じられることは、まずないのです。


大衆文学(通俗小説)と呼ばれるものと純文学とを比較した場合、前者のほうは後者よりもはるかに多くの読者を獲得しています。ベストセラーになった作品には前者のものが多いのです。ユング的に言いますと、多くの人に親しまれている、多くの人が手にとって読んでいるということは、それだけ集合性(ユングの概念である集合的無意識のcollective性)をよく表わしているということになるでしょう。つまり、早い話がユングの思想というものは、芸術性よりも大衆性とか通俗性により親近性があるのではないか、ということなのです。ユングの見方・概念に立脚するならば、大衆性とか通俗性のほうが芸術性よりも集合的無意識の集合性をよく表わしているはずではないでしょうか。そのように考えてみれば、河合隼雄の著書が、どうしてこんなにも売れてもてはやされて、あたかも人気作家のような観を呈しているのかということの理由が納得できるのではないでしょうか。それなのに、ユング思想の信奉者になると、突如として芸術に対して興味・関心を持ち始めます。実に矛盾した不思議な話です。


そして大衆性とか通俗性というものは、ある意味では俗物根性と連関するものでしょう。底の知れないような権力欲、出世欲、名誉欲は河合隼雄が以前から堂々と(というか臆面もなく)示してきたものです。私は主張したいのです。ひとたび神を垣間見たような経験をした者が俗物根性のとりこになってはならぬ、と。ユング心理学の個性化の終着点はセルフ(self自己=マンダラ)の出現であり、それはまさに神の裳裾に触れるような経験(超越的経験)です。ひとたび神を垣間見た人は、どうしてもある程度は現世的な幸福を断念しなければなりません。ひとたび龍宮城へとおもむき、そこでの饗宴にあずかった浦島太郎は、たとえ再びこの世に帰還したとしても、この世の幸福は彼の手に再び入ることはありません。もう以前のような形での環境との相互作用を、彼は持つことができないのです。浦島太郎のこの世における居場所はなくなってしまいました。ユング心理学における治癒はセルフ(マンダラ)の出現によってなされるのですが、これは神の恩寵による救済に似た超越的な経験です。いわば彼岸からの賜物なのです。彼岸からの賜物(心の安寧)を受けた者は、此岸での幸福(とりわけ出世や権力の掌握)にも同時にあずかることはできません。両方とも手に入れようなどという欲張りなことは許されません。どっちも欲しいなどと言ったら、たちまちのうちに天上世界からまっ逆様に転落してしまいます。そして、折角の彼岸からの賜物(心の安寧)さえも手放さなければなりません。これこそが悪魔の正体です。悪魔は、いかにもそれらしい顔つきでわれわれの前に現われるのではありません。そんなことはめったにありません。むしろ、やさしそうで魅力的な風貌をして現われてきます。ヒトラーは、近隣諸国の指導者達もうらやむほど演説が上手で大衆の人気がありました。ユング派における個性化は、その出発点においても(つまり、影の自覚)その終着点においても(つまり、セルフ=マンダラの出現)、それが一匹の悪魔の新たな誕生であることを如実に示しています。


ところで、彼岸からの賜物(心の安寧)を取り上げられてしまった悪魔はその後どうするのでしょうか。自己顕示欲の強さゆえに世間に聖なる経験をしたことが認められてしまっている以上、今更それが御破算になってしまっていることを表明するわけにはいかないかもしれません。そんな勇気がないかもしれません。そうすると、それを糊塗するために、益々俗物的なものにしがみつかなければならなくなるのでしょう。出世・権力の掌握・栄誉などに心の空洞を埋めるものを求めるかもしれません。超越的経験をした者にこれらのものが許されないのは、これらのものの本質が他者を支配しコントロールすることにあるからでしょう。そもそも彼岸からの賜物を受けて心の安寧を得たのは超越的な領域の出来事であり、その反面、他者を支配しコントロールするのは現世的で世俗的な領域での事柄です。俗事を超えた超越的な領域で何らかの力を得た者が、全く次元の異なる領域でその力を振るおうとするところに、恐ろしさがあるのでありまさに冒涜的な行為であるわけです。それは、超越的な経験によって獲得したものさえも、ガラガラと崩れ去ってしまうような振る舞いです。そうすると、歴史上にもこのようなニセモノの聖者が結構いることに気がつきます。怪僧とか破戒僧とかと呼ばれている者はその最たるものです。真の聖者はこの点について慎重にならざるを得ません。ですから、真の聖者は清貧に甘んじ、世間の片隅でひっそりと暮らしてきました。歴史上、名を残すこともあまりないでしょう。ただ聖者とは言っても、生きていく上での必要最小限の欲望の充足は許容できるのではないかとは思います。ですが、出世欲、権力欲、名誉欲、支配欲、甚だしい金銭欲は論外です。


さらに心理療法家としてのアイデンティティに、せっかくの彼岸からの賜物を手放してしまったことの埋め合わせを求めるかもしれません。世間一般の常識として、まさか心理療法家が悪魔であって、しかも精神異常者であろうとは中々思い至らないものです。心理療法家としての職業は、ユンギアンにとって自身の本来の姿を偽る格好の隠れ蓑を提供することになります。しかし、ひとたび超越的体験をもった者が、人を癒してやろうなどと考えてはいけないのです。超越的経験によって得たものを元手にして人を癒し金を稼ごうというのは、甚だしい冒涜です。それは前に述べたような天上世界からの転落の一因になることですし、超越的な体験をした者自身の意識において何らかの変容を生じさせると思われます。その意識における変容とは、この現実世界から次第に遠ざかっていく、自分は確かにこの世界に身を置いているはずなのに、それにもかかわらずこの世界に何かヴェールがかかってでもいるかのように世界が薄れていって味気ないものになっていってしまうというような感覚・感情ではないでしょうか。このような感覚・感情は、無意識的である場合が多いでしょう。どんなに豪奢な生活をしているとしても、その生活からその当の本人自身が目に見えない薄い膜によって隔てられているような状態ではないでしょうか。生そのものが無意味になってしまって変質しているのです。これは、すべてのユンギアンについて言えることです。心理療法家というアイデンティティにしがみつく限り決して逃れることはできません。その根本原因が、超越的な体験という僥倖と言っても構わないものを経験しておきながら、心理療法家という職業に身を置いていることなのです。ユンギアンの場合のこのアイデンティティ(特に、超越的経験と心理療法とを結びつけるユング派に限ります)は、まさに超越的な経験をした者が他者を支配しコントロールしようとする大罪を犯すものです。S・フロイトは、ユング派に関して(フロイト自身は「スイス学派」と呼んでいますが)次のように述べて批判しています。「救いを求めてわれわれの手に委ねられる患者を、われわれの所有物にしてしまい、彼の運命を彼に代って作り出し、われわれの理想を押附け、造物主の高慢さをもって自分の気に入るようにわれわれ自身の似姿に彼らを仕立て上げるというようなことを、われわれは断乎として拒否したのでありました。」(「精神分析療法の道」改訂版フロイド選集・第15巻、204頁) 自分は超越的経験をしたのだという意識(浄土真宗で言う本願ぼこりのような意識)、自分はこの思想(ユングの思想)がなければこの世でやっていけないという意識、だからみんなこの思想の恩恵に浴すべきだという意識が他人に対する押しつけがましい態度となって表われてくるのでしょう。河合隼雄が「心のノート」を作成したことにも、日本中の子供達の心をいかにもやさしそうな語り口でコントロールし、操作しようとする意図が透けて見えます。「心のノート」にユング心理学が表立って表われてはいないにしても、河合は、最終的には日本人の多くをユング教の信者に転向させたがっていたのではないでしょうか。いやしくも、超越的な経験をしておきながら、それを他者に押しつけようとし、しかも他者をコントロールしようなどとすることは超越的経験自体への冒涜以外の何ものでもありません。こうして腐敗し変質してしまった超越的経験は、毒をもって当人自身に襲いかかり(これは、無意識の領域でのことかもしれません)、そして社会にもその害悪を垂れ流し始めるのです。それは、いつも悪事をなしている者が意識的には罪の意識なんか全く感じていないと思っていたとしても、無意識において(夢において)結局自分自身を許してはいないのであって、どんなにぜいたくで華やかな暮らしをしていたとしても、その優雅な生活を真に味わうことができないという心理的な事実によって無意識からのしっぺい返しを受けているのと同じです。ユンギアンにとって臨床家というアイデンティティは最悪のアイデンティティです。俗物性とともに、このアイデンティティはせっかくの超越的経験を台無しにしてしまい、天上世界から墜落せしめてしまいます。


某巨大宗教団体の名誉会長も、聖者であると自他ともに認めながらも、金にあかせて(信者からまきあげた金をばら撒いて)外国の勲章や名誉市民の称号を買い漁っています。もしも本当に悟りを開いたような境地に達しているのなら、外国の勲章や称号などどうでもよいのではないかな、と思ってしまいます。彼は、勲章を授与する時の外国の勲章授与者の内心を忖度してみたことがあるのでしょうか。腹の中では次のように考えてあざ笑っていることでしょう。「何が宗教指導者だ。宗教指導者が聞いてあきれるわい。信者からまきあげた金をばら撒いて勲章が欲しいなどとはな。しかし、ここは多額の金員を頂戴したことでもあるし、ひとつ我慢して神妙な顔つきで勲章を恵んでやるか。」と。つまるところは、わざわざ多額の金を使って世界中に恥をばら撒いているわけです。しかも子供がおもちゃを自慢するのと同じように、聖者であると自他ともに認める者が勲章や称号をひけらかすなどもってのほかです。聖人が俗物根性のとりこになった時、これほど恐ろしく危険なものはありません。いや、本来、聖人と俗物根性とは両立するものではありません。ということは、どちらかがニセモノなのです。そのふりをしているのです。ニセモノなのは、一体どちらでしょうか。もうあえて申し上げるまでもありますまい。


世間では聖なるものを極めたか(聖なるものを体験したか)のように受け取られながらも、同時にすさまじいばかりの俗物根性を発揮するという点において河合隼雄とこの宗教団体の名誉会長とはよく似ています。ふたりは双子の兄弟ででもあるかのようです。実際に非常に仲が好いとも言われています。ふたりとも、ひとたび聖なるものを体験したにもかかわらず、俗物根性のとりこになることによって、その折角の貴重な体験を台無しにしてしまっています。その聖なるものの体験が、俗物根性のために変質し腐ってしまっています。ところが、どうしたわけか大衆的人気のほうは一向に衰える兆しがありません。これは実に不思議なことです。聖なるものをはるかに上回るレベルの強大な俗物根性にとらわれているからなのでしょうか。


文学との関連において考えてみれば、芸術性の高い純文学よりも大衆文学(通俗小説)のほうが人気を博し読者を多く獲得することと相関関係があるのかもしれません。そうして、芸術はユング派が非常に興味・関心を寄せているものであるにもかかわらず、ユング派は芸術の芸術性を取り違えています。彼らのグループの中からは、芸術は生み出されてはきません。実際に、今までそんなためしは一切ありませんでした。今後もそうでしょう。ユングの考え方に夢中になってしまったヘルマン・ヘッセは、やがて小説を書けなくなりました。河合隼雄は、フルートの演奏会をよく開催していたようですが、その演奏に芸術性はありません(「ユングは芸術の破壊者?」参照)。せいぜい河合は、そのカウンセリングに関する著作において大人気を博するくらいが関の山でしょう。これは、文学の領域で言えば、純文学ではなく大衆文学に相当するものです。もちろん、カウンセリング関係の著書と芸術性とを同じ俎上に乗せること自体はおかしいのですが、彼らがあまりにも芸術うんぬんということをもったいぶって話題にするのでそれを承知の上であえて述べてみました。だいたい集合的無意識(collective unconsciousness)などという訳の分からない奇妙なものを根本概念に据えるからいけないのです。しかも、芸術の創作活動の根源が、集合的無意識のとりわけセルフにある、などと馬鹿げたことを考えるからいけないのです。芸術芸術と偉そうに言いながら、集合的無意識をよく表現しているのは芸術性ではなくて、大衆性や通俗性のはずではありませんか(文学では、純文学ではなく大衆文学)。そして、ユングの思想をただなぞっているように見える『ゲド戦記』については、そこに芸術的価値を認めることはできません。ユング思想にかぶれている人が読めば興味深く読めるのかもしれませんが、この作品全編には何の芸術的な美もありません。聖なる体験と俗物根性が両立しないのと同様に、芸術と俗物性も両立するものではありません。
                 (2006.10.7)

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