直接交渉もできないやつら
文部科学省に、道徳の副教材「心のノート」を
廃止していただきたいと直接要望していた。国が
配ったり配らなかったりしているということは、教育
現場に途惑いを生じさせることであり、特にきちん
と取り扱わなくても結構ですよ、適当にやってくださ
い、全然やらなくても国は文句言いませんよ、とい
うメッセージを教育現場に送っていることになる。つ
まり、「心のノート」を配布することは国費の無駄
遣い以外の何ものでもない。だから、廃止してい
ただきたいと要望した。
ところが、やっぱり返事さえもない。国民が正式
に要望しているのに、聞く耳持たぬ、なのである。
何様のつもりでいるのか。このような文部科学大
臣(つまり、安部晋三内閣)、文部官僚は叩き潰
さねばならぬ。
そこで、次の手は会計検査院への要望である。
会計検査院に対し、国費の無駄遣いを文部科
学省が行っているから、会計検査を実施していた
だきたいと要望した。
さらに、2002年に「心のノート」が配布されて
以来、「心のノート」をきちんと取り扱わなかったこ
とが理由で処分された教員の方々は、しかるべき
ところに訴え出てください。文部科学省および教
育委員会は、処分する権限がなかったのです。こ
れは、権利の濫用になります。これは、「心のノー
ト」が配布されていた全期間が対象になります。「
心のノート」を国が配ったり配らなかったりしている
ということは、こんなものいい加減に取り扱っても文
句言いません、というメッセージを添えて配布して
いたのであり、それはすべての期間に及びます。
「心のノート」に関する要望と抱き合わせで、A
大学における詐欺事件について、調査して対処
していただきたいと改めて要望した。これは返事が
来た。文部科学省は、学校教育法等の法令違
反がない限り、口出しすることができないそうであ
る。本当にそうなのかなあ。
2013年12月28日土曜日
文部科学省へのメール(再掲)
(2013年8月に掲載したものを再掲した)
文部科学大臣殿
このメールを、文部科学大臣および副大臣に転送してください。
文部科学省は国立大学を管理していますが、国立大学ほどではないにせよ、私立大学についても、ある程度は管理しているのではないでしょうか。そこで、ある私立大学における犯罪行為について申し上げますので、きちんと対処していただきたい。
次に、私立A大学の学長に送付したメールをコピーします。
(以下、コピー)
文学部の二人の教授、O教授とK教授に掛け合っても埒が明かず、逆に口汚い言葉で罵倒される始末ですので、学長さんに直訴いたします。
私は、年月にA大学文学部国文学科を卒業しました。さらに、年月に、A大学大学院文学研究科修士課程(教育学専攻)に入学いたしました。しかし、大学院のほうは中途退学しています。中途退学した理由については、中国の入国管理局および大学に提出しました、推薦状を提出できない「理由書」を御参照ください。「理由書」は添付しているものです。推薦状は、中国の就労ビザを取得するための必要書類ですが、推薦状の作成を、O教授に拒否されました。そのため、やむをえず「理由書」を提出しました。
私は、中国の大学の常勤講師に招聘されています。推薦状を提出できないために、就労ビザの取得が危うくなったと思われましたが、それに代えて、推薦状を提出できない「理由書」を提出したことにより、就労ビザの手続きが進んでいる模様です。ですが、最終的にビザがおりるのかどうかは分かりません。
「理由書」に述べてありますように、事前に私には何も言わず、高額な授業料・入学金その他の必要経費を支払って大学院に入学してから、突然、ユング心理学などという心理学とは名ばかりの邪教・悪魔崇拝を強制しようというのは、まさに詐欺犯罪にほかなりません。そのために、中途退学せざるをえなくなったわけですから。O・K両教授に詐欺行為による損害の賠償を請求したところ、O教授からは、私のメールや手紙を「見るのさえ汚らわしい」と罵倒されました。「汚らわしい」という言葉は、大学教授にあるまじき幼稚な表現だと思います。人に向かってこのような言葉を使うことは、決して許されるものではありません。人格の未成熟さを感じさせる表現です。差別意識の片鱗さえも、うかがわせるものです。そこで、この「汚らわしい」という言葉を発したことに関しても、精神的苦痛を受けたことによる慰藉料を請求しています。大学院入学に関わる損害として100万円を、慰藉料としても100万円、合計200万円を両教授に請求しています。しかし、両教授は、私の請求に取り合う気配はありません。
どうか、お願いいたします。これでは、伝統あるA大学の恥になるのではないでしょうか。A大学とは、そのような低レベルの大学だったのか、ということになるでしょう。何卒よろしく善処していただけますようお願い申し上げます。
ユング心理学は、なぜ危険で恐ろしいのでしょうか。ユング心理学では、その個性化の最終段階において「マンダラ」(元型としての「自己」。Self)が夢の中に立ち現われてきたときに、すべてが一変します。ゆったりとした落ち着いた気分になり、心の病さえも治癒すると、ユング派では考えています。しかし、これはキリスト教における、神の恩寵による救済によく似ています。それでは、「マンダラ」は神なのでしょうか。C・G・Jungは、「マンダラ」を神として認めることを、断固として拒否しました(C・G・Jung著『自我と無意識の関係』)。そこで、私は主張し続けてきたのです。「マンダラ」は、確かに超越的な世界と関わりを持っている。それが神でないならば、悪魔であろう、と。実際に、ユング心理学においては、その個性化の初期段階において、元型としての「影」(自己の内なる悪なるもの)を同化しているのです。つまり、自我が悪を取り入れているのです。充分に、悪魔の資格があるではありませんか。ユング心理学で言う「治癒」とは、悪魔の恩寵による救済なのです。
(以上、コピー)
このような詐欺犯罪が行われたのは、文部科学省がユング心理学・ユング派を恰も「国教」であるかの如く、優遇しているからです。河合隼雄を文化庁長官に起用しました。最終任命権者は総理大臣か文部科学大臣でしょうが、総理大臣ならば小泉純一郎です。しかし、小泉は、判を押しただけです。新聞報道によると、河合が文化庁長官就任の挨拶に小泉を訪れたとき、ふたりは初対面であったそうだからです。文部科学大臣ならば、遠山敦子です。遠山は、文部官僚あがりの大臣です。つまり、河合を文化庁長官に起用したのは、文部科学省の役人でした。また、「心のノート」などという日本中の小学生・中学生に配布される道徳の副教材を考えだして、犯罪者・河合に作成を命じたのも文部科学省の役人です(河合が詐欺犯罪者であることについては、Webサイト『ユング心理学批判』を参照)。国家の教育行政を預かりながら、すさまじいばかりの愚行であると言わねばなりません。
私は、中国の大学の常勤講師に招聘されています。現在、就労ビザの手続き中です。手続きは順調に進んでいると聞いてはいますが、重大なハードルが待ち構えています。中国での就労ビザの発給は、駐日中国大使館で行われますが、犯罪者を優遇するような役人が幅を利かせている日本なんかには立ち寄りたくない、と中国側に申し述べました。だから、ビザの発給は、私が滞在している異国の中国大使館で行ってほしいと要望しました。当然、就労ビザの発給は困難になるでしょう。しかし、それも仕方がないと思いました。一時的にしろ、日本にいれば、犯罪者を優遇するような役人が何をしでかすか分からないと考えたからです。人をおとしめることしか念頭にない役人は、教育行政を担う資格がないのです。
しかし、憧れの中国。一度は、その地に立ってみたい。
初めのA大学における詐欺犯罪の話に戻りますが、いくら犯罪者を優遇するような役人とて、これくらいのことは、きちんとやってもらわなければ困ると存じます。
以上が、ある役所へのメールである。メールとメールが入れ子構造になっているので、注意していただきたい。また、中国の大学および入国管理局に提出した、推薦状を提出できないことの「理由書」は、以下のとおりである。
理由書
私が推薦状を提出できない理由について、下記の通り申し述べます。
私は、年月にA大学文学部国文学科を卒業しました。その在学中の指導教授がO教授でしたので、O教授に推薦状を執筆していただくのが適当であると考えた次第であります。
さらに私は、年月に、A大学大学院文学研究科修士課程(教育学専攻)に入学いたしました。私は当時、心理カウンセラー(臨床心理士)の職に就きたいと願っていたからであります。日本では、心理学専攻だけではなく、大学の教育学部や教育学専攻においても、臨床心理士の資格を取得することができます。A大学大学院文学研究科修士課程(教育学専攻)への入学につきましては、前述のO教授が、御自身は国文学が御専門ではありますが、推薦してくださいました。私が、「臨床心理士になりたい」と申しておりましたので、「それなら、うちの大学(A大学)の大学院に入学したらどうか」とO教授が勧められたのです。A大学大学院文学研究科修士課程(教育学専攻)での指導教授が、K教授でした。O教授とK教授とは親しい間柄ですので、O教授が私を推薦して下さることになったようです。
大学院文学研究科修士課程在学中に、不思議なことが起こりました。入学してから二・三箇月経過していました。ある日、指導教授のK教授が私を研究室に呼び、中国茶を淹れて私に振る舞ってくれながら、テーブルの上に置いてある一冊の書物を取り上げました。そして、その書物の表紙に書いてある著者の名前を指し示しながら、次のように言いました。
「今度この人を、(講演会の講師に)呼ぼうと思います。」
その本の著者の名前を見ると、「氏原寛」となっておりました。氏原寛は、ユング派(JungianつまりCarl
Gustav Jungが創始した臨床心理学の一派。Analytical
Psychology or Jungian
Psychology。)の臨床心理学者です。当時、大阪市立大学教授でした。ユング派では、第一人者である河合隼雄に次ぐ地位を占めていたと思います。ユング心理学につきましては、心理学としては間違っていると信じております。そして、彼らの狂信的な性格から、危険で恐ろしい心理学であると考えております。
K教授が氏原寛の著書を示しながら、氏原寛を講演会に呼ぶつもりだと私に告げた時、K教授は私にユング心理学を学ばせようとしていると理解しました。K教授は、ユング心理学に対して、好意的な態度を持っていることが分かりました。私には、ユング心理学を学ぶつもりなど全くありません。そこで、次のように答えました。
「ユング派ですか。ユング派なんか、何にもなりませんね。」
私の答えを聞くと、K教授は気分を害したようですが、それを自ら抑えるようにして次のように言いました。
「そうですね。ユング派は非科学的ですからね。でもね、私の女房は河合先生の弟子なのですよ。」
「河合先生」とは、当時、京都大学教授であり、後に文化庁長官に就任した河合隼雄のことです。日本のユング派の草分けであり、中心的存在でした。次々に出す著書は売れに売れて、ベストセラー作家も顔負けするほどでした。K教授の奥様が河合隼雄の弟子だからといって、どうして私がユング心理学を学ばなければならないのでしょうか。私が、ユング派なんか何にもならない、と答えたとき、K教授はムッとしたはずですが、やはり、それからは私は大学にいることができなくなりました。こうして私は、A大学大学院を退学せざるを得なくなりました。
私の大学院入学の前には、ユング心理学のことなど、おくびにも出さなかったK教授が、私が大学院に入学すると、いきなりユング心理学のことを持ち出し、ユング心理学を私に強要するのは奇妙なことだと感じました。私は、K教授とO教授が、共謀して私を罠に陥れたのではないかと考えました。二人の教授の背景には、ユング派がいるのでしょうか。ユング派は私を、仲間に引き入れようとしていたのでしょうか。
大学院を退学してから数年後に、私はA大学に出向き、O教授に面会して抗議いたしました。退学した直後は、挫折感と失望のために、抗議することすら思い浮かばなかったのです。ところがO教授は、最初からずっと、私の抗議には全く取り合わないという姿勢で終始していました。
私は発奮して、「(論文名)」(掲載雑誌名)を書き上げました。この論文は、ユング心理学を批判したものです。それから、また数年経過しまして、やはりA大学大学院で起きたことは詐欺だと考えるようになりました。私を騙して大学院に入学させ、ユング心理学を学ばせようとして、高額な入学金・授業料、A町とB町を何度も新幹線を利用して往復しなければならなかった交通費、引越代、住居を移すことによって必然的に生じる出費などの詐欺による損害の賠償を請求してもよいのではないかと考えるようになりました。
そこでO教授とK教授に対して、損害賠償請求を行いました。損害賠償を請求するのは、法律上も、人間としても当然の権利だと私は考えるのですが、O教授は激怒されました。さらに、今回私が依頼致しました推薦状についても、書くことはできないということでございました。
以上のような理由で、私は推薦状を提出することができなくなりました。
(固有名詞については、できる限り伏せることにした。)
八の矢(再掲)
(「敵は本能寺にあり」、「考える力を育てる」、「八の矢」は、一旦削除したものを再掲します)
八の矢
どうか安部晋三(Shinzo Abe)様、「心のノート」の予算を認めないでください、と丁寧にお願いしてもこの悪代官は「聞く耳持たぬ」だろうな。それならばだ、何としてもお前が一度は投げ出したその椅子から、引き摺り下ろしてやろうではないか。
そもそも、お前はその椅子に座る資格がないのである。それでさあ、お前が最初に総理大臣の椅子を放り出してからの何年間、一体どこで何をしていたのかい。これが、興味津々なのだけど。ちょっと教えてくれないかな。ええ?ひとり山にこもって、冷たい氷のような滝に打たれて?どうか今度ばかりは椅子を放り出したりしませんから、と荒行に励んでいたのかい?それとも誰かにマインドコントロールでも、されていたのかい?それで、日本中の子ども達や教員達を、「心のノート」でマインドコントロールしてやろうというのかい?
「心のノート」を配布させてはならない。こんなものに多額の税金を費やすのなら、その分、教育現場の国語科に有能な人材を配置することに振り向けよ。そのほうが、はるかに有意義である。考える力の育成に全力を尽くせ。
安部晋三とは、本当に個性のない男である。とにかく印象が薄い。いるのかいないのか分からない。それで、攻撃しようとしても、攻撃材料がなかなか見つからない。まさに親の悲劇・悔しさだけを追い風にして首相になったのである。
一度、取りやめていた「心のノート」を再び配布したら、教育現場は途惑うことに気がつかなかったのか。お前も、親しい小泉純一郎(Jun’ichiro Koizumi)同様、考える力というものをどこかに置き忘れているのだ。置き引きに遭っちゃうぞ。
教育現場が途惑えば、こんないんちき臭いもの、まともにやらなくてもよいらしい、第一、国が配ったり配らなかったりしている、つまり、適当にやりなさいよ、という暗黙のお達しだ、適当にやっても文句言いませんよ、というメッセージだ、と教育現場が受け取ることに気がつかなかったのだね。安部晋三君、君のものを考える力は大したものだ。ほとほと感心しましたなあ。
「こころのノート」を、きちんとやらない、適当にお茶を濁す、もしくは全然やらない、このような教員を処分しようとしたら承知しないぞ。叩き殺すぞ。
八の矢
どうか安部晋三(Shinzo Abe)様、「心のノート」の予算を認めないでください、と丁寧にお願いしてもこの悪代官は「聞く耳持たぬ」だろうな。それならばだ、何としてもお前が一度は投げ出したその椅子から、引き摺り下ろしてやろうではないか。
そもそも、お前はその椅子に座る資格がないのである。それでさあ、お前が最初に総理大臣の椅子を放り出してからの何年間、一体どこで何をしていたのかい。これが、興味津々なのだけど。ちょっと教えてくれないかな。ええ?ひとり山にこもって、冷たい氷のような滝に打たれて?どうか今度ばかりは椅子を放り出したりしませんから、と荒行に励んでいたのかい?それとも誰かにマインドコントロールでも、されていたのかい?それで、日本中の子ども達や教員達を、「心のノート」でマインドコントロールしてやろうというのかい?
「心のノート」を配布させてはならない。こんなものに多額の税金を費やすのなら、その分、教育現場の国語科に有能な人材を配置することに振り向けよ。そのほうが、はるかに有意義である。考える力の育成に全力を尽くせ。
安部晋三とは、本当に個性のない男である。とにかく印象が薄い。いるのかいないのか分からない。それで、攻撃しようとしても、攻撃材料がなかなか見つからない。まさに親の悲劇・悔しさだけを追い風にして首相になったのである。
一度、取りやめていた「心のノート」を再び配布したら、教育現場は途惑うことに気がつかなかったのか。お前も、親しい小泉純一郎(Jun’ichiro Koizumi)同様、考える力というものをどこかに置き忘れているのだ。置き引きに遭っちゃうぞ。
教育現場が途惑えば、こんないんちき臭いもの、まともにやらなくてもよいらしい、第一、国が配ったり配らなかったりしている、つまり、適当にやりなさいよ、という暗黙のお達しだ、適当にやっても文句言いませんよ、というメッセージだ、と教育現場が受け取ることに気がつかなかったのだね。安部晋三君、君のものを考える力は大したものだ。ほとほと感心しましたなあ。
「こころのノート」を、きちんとやらない、適当にお茶を濁す、もしくは全然やらない、このような教員を処分しようとしたら承知しないぞ。叩き殺すぞ。
(2013年12月19日付けで掲載していたものを、一旦削除した上で、再び掲載した。)
考える力を育てる(再掲)
青いフォントは新たに書き加えた。第5段落と第6段落の2箇所。
考える力を育てる
小泉純一郎(Junichiro Koizumi)は、歴代の総理大臣の中でも、人気度の高い首相であると言ってもよいだろう。小泉が首相であったとき、自身の年金問題について国会で追及されたことがあった。そのとき小泉は、次のように答弁した。
「人生いろいろ。会社もいろいろ。」
議場は大爆笑の渦に巻き込まれた。小泉の人気の秘密の一端を、垣間見せてくれる答弁である。これは、国会中継としてテレビやラジオで放送された。国会の議場は、真剣勝負の場であるはずである。われわれが通常、会議において発言するよりも、国会での発言は何十倍もの重い意味を持つものであるはずである。総理大臣が国会でふざけた発言をすることが許されるはずがない。「人生いろいろ。会社もいろいろ」とは、浜口庫之助が作詞作曲し、島倉千代子が歌って大ヒットした曲の歌詞をもじったものである。これが、一国の首相が国会で行う答弁か。あまりにも幼稚で情けないではないか。ものを考える力のない者が、総理大臣になっていたのである。しかも、人格の卑しさもよく表れている。歴代の日本の首相で比較的立派でまともな人物と思われる人を、2・3人思い浮かべてみるがいい。その首相は、人気があったか。僕が思い浮かべた首相は、人気がなかった。つまらぬ人物、過去に犯罪を犯したような人物、ものを考える力のない人物が、えてして人気者になることがある。僕が思い浮かべた立派でまともな首相は、人気はなかったけれども、小泉のような人をおちょくったようなことは言わない。あのとき、国会の議場で笑い転げた議員は、バッジをはずせ。選挙のとき、投票者はもっと真剣に候補者の人物を見極めないと大変なことになる。小泉や安部晋三(Shinzo Abe)のような、ふざけた首相が誕生してしまったではないか。しかも、この国民をおちょくる首相が、結構人気が高いとは、どういうことだろう。
子どもの遊び仲間の間では、剽軽な子に人気が集まるという傾向がある。小泉純一郎は、その首相版だ。あまりにも情けないのではないだろうか。こうして空っぽ頭の総理大臣が、日本を駄目にしていくことになった。小泉進次郎(Shinjiro Koizumi)とかいう小泉純一郎の息子が、次期首相候補に名を連ねているようだが、父親譲りの軽佻浮薄、空っぽ頭のふざけた人気者に、またまた日本の運命を委ねてしまうという愚挙を繰り返してはならない。
創価学会の池田大作(Daisaku Ikeda)は、収集が趣味である。収集と言っても、記念切手やコインではない。外国の勲章なのである。外国の勲章?それは立派ではないか、と考えてはいけない。外国のほうから贈呈しますと申し出てくれたのではない。貧しい信者から巻き上げた金でもって、勲章を買い漁っているのである。それで悦に入っている。実に幼稚な精神・思考力ではないか。子ども時代に既に、考える力の発達が停止してしまったのではないだろうか。不思議なのは、貧しい信者がどうして怒らないのかということである。
河合隼雄(Hayao Kawai)は、ある著書(「カウンセリングを語る」だったかもしれないし、別の題名だったかもしれない)で書いている。あるとき人から、「河合さんは、よく努力なさいますね」と言われた。それに対して河合は、「他にすることがないので、努力させてもらっている」と答えた。これを読んだ河合ファン、例えば、今までものを考えたことが一度もないような愚者の集まりである創価学会の会員は、「さすが、河合さんは言うことが違うなあ」と、ただただ敬服し、信仰の念を厚くしていたにちがいない。そりゃあ、言うことが常人と違うに決まっている。人間離れした、暖かい人間の血が通っていない、いわば化け物のようなものなのであるから。しかも、“日本ウソツキクラブ会長”を自任するという幼稚でふざけた野郎なのである。京都大学教授とは聞いてあきれる。考える力があるのか。河合俊雄(Toshio Kawai)といい、京都大学とは空っぽ頭の集まった最高学府か。
そもそも努力とは、暇つぶし、すさびごと、遊びごとでするものではない。やむにやまれぬ、それこそ執念のような情念に突き動かされて行うものである。河合隼雄が本当に努力していたのなら、「私は真剣です。この心理学を日本中に広めなければならないのです。そのために私は命を懸けています」とでも言ってみればよかったのだ。しかし言えまい。そのくせ、すさまじいばかりに狂信的になる。これはいったい、どうしたことか。
“Jungian”やユングファンは、例外なく狂信的・盲信的になる。そして人にストーカー的な行為をさえ行うのである。彼らの狂信や盲信が、いかに内実のない空虚なものであるかは明らかである。狂信的な、創価学会のような“cult”の信者と同じような心性なのである。A大学でユング派による詐欺犯罪の被害に遭ったが、あのとき実行犯であったK教授は、ユング心理学の話をするとき、頬の筋肉をはじめ顔中の筋肉が緩み、眦は下がり、ほちゃほちゃとして、まるで初孫を見るおじいさんのような顔になっていた。なんとなく好きなんですねえ、と河合隼雄のファンになっていった人も結構いるのではないだろうか。これは、“sentimental”にすぎない。“sentimental”な感情か情感というものは、極めて危険な面をもっている。この“sentimental”については、後に機会があれば述べることがあるかもしれない。このような、あやふやな情感か情動によって、理性的に考えるのではなく、多くの人が恐ろしいユングファンになっていった。第二次世界大戦前夜に、多くのドイツ国民が、ヒトラーに心酔し信奉したのとまったく同じではないか。ユング派は、スイスのチューリッヒにあるというユング研究所で、おどろおどろしい秘儀(秘密の儀式)に耽っているのである。ユング派の“分析”(分析と呼ぶこと自体、おかしい)は、とりも直さず秘儀と呼ぶしかない。来る日も来る日も薄暗い部屋にひとり閉じ籠って、壁に向かって何やら訳の分からないことを、ぶつぶつ呟いていて、それで精神が健全になるわけがないではないか(教祖のC・G・ユングの個性化)。河合隼雄が人から「よく努力しますね」と言われたときに、人を馬鹿にしたふざけた受け答えをしてしまったのは、きっぱりと、「私はこれに命を懸けています」ということができなかったのである。ユング心理学が、いかにいんちきな邪教であるか、ということである。ふざけたやつらだ。
大昔の人々は、生きていくために獲物をとる技術を磨かなければならなかっただろう。その技術を、弓矢の腕だとする。大昔の人々が、毎日、弓矢を射る練習をしていたかどうかは分からないが、とにかくその技術の向上は自分や家族、その属する共同体の死活問題であった。まさに命がかかっていたのである。この技術の向上は、河合のように暇つぶしで達成されるものではない。熱く燃え上がる炎のような情念によって成し遂げられるものである。河合隼雄も小泉純一郎同様、実にふざけた、人を馬鹿にした人物ではないか。(前に、大昔の弓矢の技術について、歴史学的・民族学的・民俗学的観点から見れば(民俗学は、ちょっと違ったかな)、僕の記述はおかしいという指摘を受けた。確かに間違っているかもしれない。しかし僕は、この箇所を削除するつもりはない。日本人は農耕民族である。獲物を求めて、弓矢などの武器を携えて山野を駆け巡っていた事実が大昔にあったかどうか、確かにわからない。だけど、この箇所の記述は、日本人の場合に限定しているわけでもない。たとえばヨーロッパ人の場合、弓矢の技術の向上は、それこそ“命を懸けて”努力をなされたのであろう。)
現代のわれわれにとって、大昔の人の弓矢を射る技術に相当するものは何であろうか。それは、考える力であろう。思考力の程度が、生きるか死ぬかに関わってくる場合もあるであろう。したがって、子どもを育てるときには、いかにして子どもが考える力を伸ばすのを援助するかが重要になってくる。
学校教育においては数学も大切であるが、それにもまして有効なのは国語(Japanese)の現代文である。ひとつの文章を丹念に読む。ゆっくりと何度も繰り返し読むことは、思考力を発達させる上で、王道だと思う。それは、もちろん良質な文章でなければならない。特に、ユング派やユングかぶれのした人の文章であってはならない。ユング派の思考法というものは、画一的で短絡的であるからである。そのくせ、何を言っているのかよく分からない。ユング派が基本におく立脚点自体が、あやふやなものだからである。従って、やつらの主張することは論理的ではない。感情でものを言っているからである。だから、何を言っているのか理解できない。読んでいると頭が痛くなってくる。こんなものを国語の教材に使ってはいけない。
質の高い文章を、真剣勝負のつもりで何度も何度も読んでいると、初めに見えなかったものが見えてくることがある。このときやっと、筆者が本当に言いたかったことをつかむことができたのである。考える力は、このようにして身についていくものと考えられる。速読術は役に立たない。より多くの知識を得るためだけならば、それも悪くはないかもしれないが、考える力をつけるためならば、速読しても無意味である。
学校教育においては、国語科の現代文の指導に優秀な人材を確保するように努めるべきだと思う。国語の指導者が考える力のない人だったら、子どもの考える力を伸ばすことは難しくなる。道徳教育を云々する前に、考える力の育成に努めるべきではないだろうか。「心のノート」を配布するよりも、国語科の充実に金をつぎ込んだほうが有益であろう。これを怠ると、人気者だが空っぽ頭の首相や国会議員が日本の進路を誤らせることになる。小泉純一郎や河合隼雄が人を馬鹿にしたふざけた発言をするのは、やつらの道徳性・倫理性がどうかということ以前に、やつらの頭の中が空っぽだからである。そのためには、第一に国語科の現代文、第二に数学科である。
考える力を育てる
小泉純一郎(Junichiro Koizumi)は、歴代の総理大臣の中でも、人気度の高い首相であると言ってもよいだろう。小泉が首相であったとき、自身の年金問題について国会で追及されたことがあった。そのとき小泉は、次のように答弁した。
「人生いろいろ。会社もいろいろ。」
議場は大爆笑の渦に巻き込まれた。小泉の人気の秘密の一端を、垣間見せてくれる答弁である。これは、国会中継としてテレビやラジオで放送された。国会の議場は、真剣勝負の場であるはずである。われわれが通常、会議において発言するよりも、国会での発言は何十倍もの重い意味を持つものであるはずである。総理大臣が国会でふざけた発言をすることが許されるはずがない。「人生いろいろ。会社もいろいろ」とは、浜口庫之助が作詞作曲し、島倉千代子が歌って大ヒットした曲の歌詞をもじったものである。これが、一国の首相が国会で行う答弁か。あまりにも幼稚で情けないではないか。ものを考える力のない者が、総理大臣になっていたのである。しかも、人格の卑しさもよく表れている。歴代の日本の首相で比較的立派でまともな人物と思われる人を、2・3人思い浮かべてみるがいい。その首相は、人気があったか。僕が思い浮かべた首相は、人気がなかった。つまらぬ人物、過去に犯罪を犯したような人物、ものを考える力のない人物が、えてして人気者になることがある。僕が思い浮かべた立派でまともな首相は、人気はなかったけれども、小泉のような人をおちょくったようなことは言わない。あのとき、国会の議場で笑い転げた議員は、バッジをはずせ。選挙のとき、投票者はもっと真剣に候補者の人物を見極めないと大変なことになる。小泉や安部晋三(Shinzo Abe)のような、ふざけた首相が誕生してしまったではないか。しかも、この国民をおちょくる首相が、結構人気が高いとは、どういうことだろう。
子どもの遊び仲間の間では、剽軽な子に人気が集まるという傾向がある。小泉純一郎は、その首相版だ。あまりにも情けないのではないだろうか。こうして空っぽ頭の総理大臣が、日本を駄目にしていくことになった。小泉進次郎(Shinjiro Koizumi)とかいう小泉純一郎の息子が、次期首相候補に名を連ねているようだが、父親譲りの軽佻浮薄、空っぽ頭のふざけた人気者に、またまた日本の運命を委ねてしまうという愚挙を繰り返してはならない。
創価学会の池田大作(Daisaku Ikeda)は、収集が趣味である。収集と言っても、記念切手やコインではない。外国の勲章なのである。外国の勲章?それは立派ではないか、と考えてはいけない。外国のほうから贈呈しますと申し出てくれたのではない。貧しい信者から巻き上げた金でもって、勲章を買い漁っているのである。それで悦に入っている。実に幼稚な精神・思考力ではないか。子ども時代に既に、考える力の発達が停止してしまったのではないだろうか。不思議なのは、貧しい信者がどうして怒らないのかということである。
河合隼雄(Hayao Kawai)は、ある著書(「カウンセリングを語る」だったかもしれないし、別の題名だったかもしれない)で書いている。あるとき人から、「河合さんは、よく努力なさいますね」と言われた。それに対して河合は、「他にすることがないので、努力させてもらっている」と答えた。これを読んだ河合ファン、例えば、今までものを考えたことが一度もないような愚者の集まりである創価学会の会員は、「さすが、河合さんは言うことが違うなあ」と、ただただ敬服し、信仰の念を厚くしていたにちがいない。そりゃあ、言うことが常人と違うに決まっている。人間離れした、暖かい人間の血が通っていない、いわば化け物のようなものなのであるから。しかも、“日本ウソツキクラブ会長”を自任するという幼稚でふざけた野郎なのである。京都大学教授とは聞いてあきれる。考える力があるのか。河合俊雄(Toshio Kawai)といい、京都大学とは空っぽ頭の集まった最高学府か。
そもそも努力とは、暇つぶし、すさびごと、遊びごとでするものではない。やむにやまれぬ、それこそ執念のような情念に突き動かされて行うものである。河合隼雄が本当に努力していたのなら、「私は真剣です。この心理学を日本中に広めなければならないのです。そのために私は命を懸けています」とでも言ってみればよかったのだ。しかし言えまい。そのくせ、すさまじいばかりに狂信的になる。これはいったい、どうしたことか。
“Jungian”やユングファンは、例外なく狂信的・盲信的になる。そして人にストーカー的な行為をさえ行うのである。彼らの狂信や盲信が、いかに内実のない空虚なものであるかは明らかである。狂信的な、創価学会のような“cult”の信者と同じような心性なのである。A大学でユング派による詐欺犯罪の被害に遭ったが、あのとき実行犯であったK教授は、ユング心理学の話をするとき、頬の筋肉をはじめ顔中の筋肉が緩み、眦は下がり、ほちゃほちゃとして、まるで初孫を見るおじいさんのような顔になっていた。なんとなく好きなんですねえ、と河合隼雄のファンになっていった人も結構いるのではないだろうか。これは、“sentimental”にすぎない。“sentimental”な感情か情感というものは、極めて危険な面をもっている。この“sentimental”については、後に機会があれば述べることがあるかもしれない。このような、あやふやな情感か情動によって、理性的に考えるのではなく、多くの人が恐ろしいユングファンになっていった。第二次世界大戦前夜に、多くのドイツ国民が、ヒトラーに心酔し信奉したのとまったく同じではないか。ユング派は、スイスのチューリッヒにあるというユング研究所で、おどろおどろしい秘儀(秘密の儀式)に耽っているのである。ユング派の“分析”(分析と呼ぶこと自体、おかしい)は、とりも直さず秘儀と呼ぶしかない。来る日も来る日も薄暗い部屋にひとり閉じ籠って、壁に向かって何やら訳の分からないことを、ぶつぶつ呟いていて、それで精神が健全になるわけがないではないか(教祖のC・G・ユングの個性化)。河合隼雄が人から「よく努力しますね」と言われたときに、人を馬鹿にしたふざけた受け答えをしてしまったのは、きっぱりと、「私はこれに命を懸けています」ということができなかったのである。ユング心理学が、いかにいんちきな邪教であるか、ということである。ふざけたやつらだ。
大昔の人々は、生きていくために獲物をとる技術を磨かなければならなかっただろう。その技術を、弓矢の腕だとする。大昔の人々が、毎日、弓矢を射る練習をしていたかどうかは分からないが、とにかくその技術の向上は自分や家族、その属する共同体の死活問題であった。まさに命がかかっていたのである。この技術の向上は、河合のように暇つぶしで達成されるものではない。熱く燃え上がる炎のような情念によって成し遂げられるものである。河合隼雄も小泉純一郎同様、実にふざけた、人を馬鹿にした人物ではないか。(前に、大昔の弓矢の技術について、歴史学的・民族学的・民俗学的観点から見れば(民俗学は、ちょっと違ったかな)、僕の記述はおかしいという指摘を受けた。確かに間違っているかもしれない。しかし僕は、この箇所を削除するつもりはない。日本人は農耕民族である。獲物を求めて、弓矢などの武器を携えて山野を駆け巡っていた事実が大昔にあったかどうか、確かにわからない。だけど、この箇所の記述は、日本人の場合に限定しているわけでもない。たとえばヨーロッパ人の場合、弓矢の技術の向上は、それこそ“命を懸けて”努力をなされたのであろう。)
現代のわれわれにとって、大昔の人の弓矢を射る技術に相当するものは何であろうか。それは、考える力であろう。思考力の程度が、生きるか死ぬかに関わってくる場合もあるであろう。したがって、子どもを育てるときには、いかにして子どもが考える力を伸ばすのを援助するかが重要になってくる。
学校教育においては数学も大切であるが、それにもまして有効なのは国語(Japanese)の現代文である。ひとつの文章を丹念に読む。ゆっくりと何度も繰り返し読むことは、思考力を発達させる上で、王道だと思う。それは、もちろん良質な文章でなければならない。特に、ユング派やユングかぶれのした人の文章であってはならない。ユング派の思考法というものは、画一的で短絡的であるからである。そのくせ、何を言っているのかよく分からない。ユング派が基本におく立脚点自体が、あやふやなものだからである。従って、やつらの主張することは論理的ではない。感情でものを言っているからである。だから、何を言っているのか理解できない。読んでいると頭が痛くなってくる。こんなものを国語の教材に使ってはいけない。
質の高い文章を、真剣勝負のつもりで何度も何度も読んでいると、初めに見えなかったものが見えてくることがある。このときやっと、筆者が本当に言いたかったことをつかむことができたのである。考える力は、このようにして身についていくものと考えられる。速読術は役に立たない。より多くの知識を得るためだけならば、それも悪くはないかもしれないが、考える力をつけるためならば、速読しても無意味である。
学校教育においては、国語科の現代文の指導に優秀な人材を確保するように努めるべきだと思う。国語の指導者が考える力のない人だったら、子どもの考える力を伸ばすことは難しくなる。道徳教育を云々する前に、考える力の育成に努めるべきではないだろうか。「心のノート」を配布するよりも、国語科の充実に金をつぎ込んだほうが有益であろう。これを怠ると、人気者だが空っぽ頭の首相や国会議員が日本の進路を誤らせることになる。小泉純一郎や河合隼雄が人を馬鹿にしたふざけた発言をするのは、やつらの道徳性・倫理性がどうかということ以前に、やつらの頭の中が空っぽだからである。そのためには、第一に国語科の現代文、第二に数学科である。
(2013年12月18日付けで掲載していたものを、一旦削除した上で、再び掲載した。)
敵は本能寺にあり(再掲)
(「敵は本能寺にあり」、「考える力を育てる」、「八の矢」は、一旦削除したものを再掲します)
敵は本能寺にあり
道徳の副教材「心のノート」は、日本の小学生・中学生全員に、多額の税金を使って配布されている。「心のノート」は、その作られた意図とは逆に、子ども達の心の成長を阻害するものである。
「心のノート」の背景にあるのは心理学である。初めて作成したのが、当時文化庁長官であった河合隼雄であった。河合隼雄は、日本のユング派心理学の草分けであり、中心的人物であった。だから、「心のノート」の背景にある心理学とは、ユング心理学であることは明らかである。河合隼雄は、実は犯罪者なのである。若い頃に二度、詐欺事件を起こしていた。犯罪者に道徳の副教材「心のノート」を作成させる。しかも、日本の子ども全員に配布する。なんと奇妙なことではないか。
また「心のノート」は、国家レベルの非常に大規模なカウンセリング(=マインドコントロール)を日本の子ども全員を対象に実施しているものと言えよう。その手足になっているのが、小中学校の教員である。その過程においては、小中学校の教員も、この大規模なカウンセリング(=マインドコントロール)の対象となっているだろう。気に食わない教員を見つけるための物差しにもなるだろう。
相も変わらず、多額の税金を使って「心のノート」を配布しているのは、まさに愚挙ではないか。しかも、「心のノート」は子ども達を痛めつけるだけであるし、心の成長を妨げるものなのである。このような馬鹿げたことは、やめさせなければならない。
やめさせるためには、どうすればよいだろうか。文部科学省を批判するだけでは駄目なのかもしれない。むしろ、安部晋三内閣を動かさなければならないのではないだろうか。安部内閣は、「心のノート」を廃止する心づもりがあると、皆さんは考えますか?たぶん廃止するつもりは、ないでしょうね。そうすると、どうしても安部内閣を倒さなければならないということになりますね。今年中か来年の初めまでには。そのためには、どうすればよいでしょうか。
敵は本能寺にあり
道徳の副教材「心のノート」は、日本の小学生・中学生全員に、多額の税金を使って配布されている。「心のノート」は、その作られた意図とは逆に、子ども達の心の成長を阻害するものである。
「心のノート」の背景にあるのは心理学である。初めて作成したのが、当時文化庁長官であった河合隼雄であった。河合隼雄は、日本のユング派心理学の草分けであり、中心的人物であった。だから、「心のノート」の背景にある心理学とは、ユング心理学であることは明らかである。河合隼雄は、実は犯罪者なのである。若い頃に二度、詐欺事件を起こしていた。犯罪者に道徳の副教材「心のノート」を作成させる。しかも、日本の子ども全員に配布する。なんと奇妙なことではないか。
また「心のノート」は、国家レベルの非常に大規模なカウンセリング(=マインドコントロール)を日本の子ども全員を対象に実施しているものと言えよう。その手足になっているのが、小中学校の教員である。その過程においては、小中学校の教員も、この大規模なカウンセリング(=マインドコントロール)の対象となっているだろう。気に食わない教員を見つけるための物差しにもなるだろう。
相も変わらず、多額の税金を使って「心のノート」を配布しているのは、まさに愚挙ではないか。しかも、「心のノート」は子ども達を痛めつけるだけであるし、心の成長を妨げるものなのである。このような馬鹿げたことは、やめさせなければならない。
やめさせるためには、どうすればよいだろうか。文部科学省を批判するだけでは駄目なのかもしれない。むしろ、安部晋三内閣を動かさなければならないのではないだろうか。安部内閣は、「心のノート」を廃止する心づもりがあると、皆さんは考えますか?たぶん廃止するつもりは、ないでしょうね。そうすると、どうしても安部内閣を倒さなければならないということになりますね。今年中か来年の初めまでには。そのためには、どうすればよいでしょうか。
(2013年12月17日付けで掲載していたものを、一旦削除した上で、再び掲載した。)
2013年12月27日金曜日
まなざし
(このサイトについては、古いほうから順に読んでい
ただいたほうがよろしいかと思います。)
まなざし
最近ニュースになったことだから、覚えている人も
たくさんいると思う。ローマ法王フランシスコ1世の
逸話である。フランシスコ1世が、難病のために差
別を受け続けてきた男性を抱きしめた話である。
そのとき男性の傍にいた身内の人は、「法王は何
も言わず、ただ心の奥深くまで届くような、それは
美しいまなざしで私の方を見た」(CNN)と、話している。
僕もこのような「まなざし」に、一度だけ出会った
ことがある。まだ若かった頃のことである。その人は
、牧師でも僧侶でもなかった。この「まなざし」は、
その後、僕の心をいつもポカポカと温めてくれる目
に見えない懐炉のようになった。
「那須与一、将に射むとす」(http://moriyamag.blogspot.fr/2013/10/blog-post_18.html)
の河合隼雄のウソツキ退職の項の末尾で、「日
本の小・中・高の教員たちは、生徒が転んだとき
、手を差し伸べようとする。それが、全人格的なも
のであるとき、自分の持っているものすべてを賭し
たものであるとき、そしてそれが生徒の心に伝わっ
たとき、大抵の生徒は自ら起き上がろうとする」の
中で、「それが、全人格的なものであるとき、自分
の持っているものすべてを賭したものであるとき」と
あるのは、このような「まなざし」を、脳裏に思い浮
かべていたかもしれない。しかし、それではあまりに
も荷が勝ちすぎていよう。平たく言えば、こういうこ
となのである。ひとりの人間が心配している、この
気持ちが相手の心に伝わりさえすればよいのであ
る。
ただいたほうがよろしいかと思います。)
まなざし
最近ニュースになったことだから、覚えている人も
たくさんいると思う。ローマ法王フランシスコ1世の
逸話である。フランシスコ1世が、難病のために差
別を受け続けてきた男性を抱きしめた話である。
そのとき男性の傍にいた身内の人は、「法王は何
も言わず、ただ心の奥深くまで届くような、それは
美しいまなざしで私の方を見た」(CNN)と、話している。
僕もこのような「まなざし」に、一度だけ出会った
ことがある。まだ若かった頃のことである。その人は
、牧師でも僧侶でもなかった。この「まなざし」は、
その後、僕の心をいつもポカポカと温めてくれる目
に見えない懐炉のようになった。
「那須与一、将に射むとす」(http://moriyamag.blogspot.fr/2013/10/blog-post_18.html)
の河合隼雄のウソツキ退職の項の末尾で、「日
本の小・中・高の教員たちは、生徒が転んだとき
、手を差し伸べようとする。それが、全人格的なも
のであるとき、自分の持っているものすべてを賭し
たものであるとき、そしてそれが生徒の心に伝わっ
たとき、大抵の生徒は自ら起き上がろうとする」の
中で、「それが、全人格的なものであるとき、自分
の持っているものすべてを賭したものであるとき」と
あるのは、このような「まなざし」を、脳裏に思い浮
かべていたかもしれない。しかし、それではあまりに
も荷が勝ちすぎていよう。平たく言えば、こういうこ
となのである。ひとりの人間が心配している、この
気持ちが相手の心に伝わりさえすればよいのであ
る。
2013年12月24日火曜日
冷血動物著「心のノート」
(4つ目と5つ目の段落あたりを、少しだけ手直ししました。冷血動物の弟子や又弟子も、やはり冷血動物です。ユング心理学は、全人格に関わるような心理学だからです。)
冷血動物著「心のノート」
僕は、電車に乗っていい気持ちで寝ていた。すると、足にガツンと何かがぶつかった。目を覚ますと、女の子が前に立っている。20歳ぐらいの大学生風である。車内は、そんなに混んでいるわけでもない。日曜日の昼下がりである。立っている乗客は、まばらである。女の子が、電車に乗り込んできて、ちょっと大きな固い荷物を下ろした拍子に、僕の足にぶつかったのである。「この野郎、人がいい気持ちで眠っているのにたたき起こしやがって」と睨みつけても、われ関せずとばかりにかばんから本を取り出して読み始めた。カバーもかけていないので『心理療法序説』という題名をひけらかすかのようにしている(河合隼雄Hayao Kawai著。岩波書店刊)。
女の子は、その本を数行読むと,車外の風景に目をやる。そして、しばらく今読んだ文章を噛みしめるかのように、反芻するかのようにしている。おお、これは書物の読み方としては、なかなかいいかもしれないと思った。まるでバイブルかコーランを読んでいるみたいではないか。惜しむらくは、それが『心理療法序説』であったとは。
このようにして、この冷酷非情な、非人間的な人物の著作が広まっていったのだろうか。何故、このような恐ろしい人物の書いたものが、バイブルかコーランのようにして読まれるのだろうか。どうしてこの冷血動物の著書がもてはやされるのだろうか。
今まで眠っていた、すぐ目の前にいる男が、急に目を見開いて自分を睨みつけている。自分は、ちょっと大きくて固い荷物をその男の足元に下ろしたばかりだ。電車は揺れるものである。これだけの材料が揃っていて、その原因と結果について思いをいたす能力さえも持ち合わせていないのか。小学生ぐらいの子どもでも、それぐらいはできることではないのか。この大学生は、おそらくユング派の臨床心理士でも目指しているのだろう。ろくなカウンセラーにはなれないだろう。人の気持ちを忖度することができない、その能力自体が欠落しているのである。考える力が、まったくないのである。もしかしたら、周囲の世界と隔絶した世界に、ひとりきりで閉じこもっているのではないか。
ユング派は、ありもしない集合的無意識(「心の中の女性像は魂ではない」を参照。11月24日付)という幻を見つめすぎるのである。そのために、他者の存在すら分からなくなってしまう。人がどんなことを感じているのか、何を考えているのかを察することができなくなっているようである。心が外界に開かれていない。ある程度、利口な子どもでもできることができない。他人に対する配慮がない。思いやりの気持ちが皆無である。自己中心的という言葉が、ぴったりと当てはまる。他者の存在が見えていないのである。人の心の痛みを察することができなければ、必然的に河合隼雄のような冷酷な人間になる。河合隼雄の著書なんか読むから、こうなってしまったのか。それとも河合同様、非人間的な人物が非人間的な河合に魅かれるのか。
河合隼雄は日本臨床心理学会において、子どもの心理検査に関し、その非人間的な取り扱いを厳しく批判された。それでカンカンに怒った河合は、「それなら、こんな学会なんかおん出てやる」と、何人かの手下を引き連れて飛び出してしまった。その後河合は、心理臨床学会という変な名称の団体を設立した(臨床心理学会という名称は、本家のほうが使用しているから使えないわけである)。ところが、臨床心理学会よりも分家の心理臨床学会のほうが、はるかに大きな団体になってしまったのである。妙な話である。河合の冷酷さがよく表れている話である。子ども達を実験材料に使っていたとしか言いようがない。もう人間ではないとしか言いようがない。どうして多くの人は、このような人物に魅力を感じるのだろうか。機械・コンピュータのような心。冷たく、あくまでも酷薄だ。今は、俺のすさまじいばかりの権力欲を隠すために謙虚さを装ったほうがよさそうだ。誰も笑っていないけど、ひとりでへらへら笑っていたほうが、俺のこの冷たい恐ろしい心をカムフラージュできるにちがいない。すべて計算ずくなのだ。人格者、河合隼雄を演じているのである。
僕は、中国に行って「佇立する安寿」(11月3日付け)を論文に仕上げようと思っていた。しかし、もうその機会はなくなってしまった。それなら、せめてアウトラインでもと、このサイトに載せた。
日本の出版社・雑誌に持ち込んでも、最初から相手にしてくれない。冷たくあしらわれるだけである。それで、中国の雑誌なら掲載してくれるかもしれないと考えた。なんとなく、そんな感じがした。
「ユングは新しい福音たりうるか」(8月31日付)は、僕の3本目の論文になるはずだったが、日の目を見なかった。ただ、この論文は、あまりできはよくない。2本目の論文のほうが、よく書けていると思う。この二つの論文は、いくつかの出版社に持ち込んだが、ほとんど、最初から相手にしてくれなかった。2本とも持ち込んだのが、岩波書店である。冷たく拒否された。この出版社は、河合隼雄が人気作家も顔負けするほどの売れっ子になるのに手を貸した。河合のようないかがわしい、いんちき本を書くやつには、ヘラヘラ笑いを浮かべてゴマをすって、僕のように質の高い立派な論文を書く人物には、突慳貪に冷たくあしらうのである。これが日本を代表する、アカデミックな社風を有する出版社の実態である。空っぽ頭の、考える力のないやつらの寄せ集めなのである。ぜひとも告発しておかないといけないと思った。
学習研究社は、横柄で態度のでかい出版社である。自分を何様だと思っているのだろう。こんな出版社が、教育・学習関連の図書を出版しているのは、子どもの教育上極めてよろしくない。しかも、この会社は「心のノート」なんかも制作しているのである。実にけしからん。悪徳商人め。
冷血動物著「心のノート」
僕は、電車に乗っていい気持ちで寝ていた。すると、足にガツンと何かがぶつかった。目を覚ますと、女の子が前に立っている。20歳ぐらいの大学生風である。車内は、そんなに混んでいるわけでもない。日曜日の昼下がりである。立っている乗客は、まばらである。女の子が、電車に乗り込んできて、ちょっと大きな固い荷物を下ろした拍子に、僕の足にぶつかったのである。「この野郎、人がいい気持ちで眠っているのにたたき起こしやがって」と睨みつけても、われ関せずとばかりにかばんから本を取り出して読み始めた。カバーもかけていないので『心理療法序説』という題名をひけらかすかのようにしている(河合隼雄Hayao Kawai著。岩波書店刊)。
女の子は、その本を数行読むと,車外の風景に目をやる。そして、しばらく今読んだ文章を噛みしめるかのように、反芻するかのようにしている。おお、これは書物の読み方としては、なかなかいいかもしれないと思った。まるでバイブルかコーランを読んでいるみたいではないか。惜しむらくは、それが『心理療法序説』であったとは。
このようにして、この冷酷非情な、非人間的な人物の著作が広まっていったのだろうか。何故、このような恐ろしい人物の書いたものが、バイブルかコーランのようにして読まれるのだろうか。どうしてこの冷血動物の著書がもてはやされるのだろうか。
今まで眠っていた、すぐ目の前にいる男が、急に目を見開いて自分を睨みつけている。自分は、ちょっと大きくて固い荷物をその男の足元に下ろしたばかりだ。電車は揺れるものである。これだけの材料が揃っていて、その原因と結果について思いをいたす能力さえも持ち合わせていないのか。小学生ぐらいの子どもでも、それぐらいはできることではないのか。この大学生は、おそらくユング派の臨床心理士でも目指しているのだろう。ろくなカウンセラーにはなれないだろう。人の気持ちを忖度することができない、その能力自体が欠落しているのである。考える力が、まったくないのである。もしかしたら、周囲の世界と隔絶した世界に、ひとりきりで閉じこもっているのではないか。
ユング派は、ありもしない集合的無意識(「心の中の女性像は魂ではない」を参照。11月24日付)という幻を見つめすぎるのである。そのために、他者の存在すら分からなくなってしまう。人がどんなことを感じているのか、何を考えているのかを察することができなくなっているようである。心が外界に開かれていない。ある程度、利口な子どもでもできることができない。他人に対する配慮がない。思いやりの気持ちが皆無である。自己中心的という言葉が、ぴったりと当てはまる。他者の存在が見えていないのである。人の心の痛みを察することができなければ、必然的に河合隼雄のような冷酷な人間になる。河合隼雄の著書なんか読むから、こうなってしまったのか。それとも河合同様、非人間的な人物が非人間的な河合に魅かれるのか。
河合隼雄は日本臨床心理学会において、子どもの心理検査に関し、その非人間的な取り扱いを厳しく批判された。それでカンカンに怒った河合は、「それなら、こんな学会なんかおん出てやる」と、何人かの手下を引き連れて飛び出してしまった。その後河合は、心理臨床学会という変な名称の団体を設立した(臨床心理学会という名称は、本家のほうが使用しているから使えないわけである)。ところが、臨床心理学会よりも分家の心理臨床学会のほうが、はるかに大きな団体になってしまったのである。妙な話である。河合の冷酷さがよく表れている話である。子ども達を実験材料に使っていたとしか言いようがない。もう人間ではないとしか言いようがない。どうして多くの人は、このような人物に魅力を感じるのだろうか。機械・コンピュータのような心。冷たく、あくまでも酷薄だ。今は、俺のすさまじいばかりの権力欲を隠すために謙虚さを装ったほうがよさそうだ。誰も笑っていないけど、ひとりでへらへら笑っていたほうが、俺のこの冷たい恐ろしい心をカムフラージュできるにちがいない。すべて計算ずくなのだ。人格者、河合隼雄を演じているのである。
僕は、中国に行って「佇立する安寿」(11月3日付け)を論文に仕上げようと思っていた。しかし、もうその機会はなくなってしまった。それなら、せめてアウトラインでもと、このサイトに載せた。
日本の出版社・雑誌に持ち込んでも、最初から相手にしてくれない。冷たくあしらわれるだけである。それで、中国の雑誌なら掲載してくれるかもしれないと考えた。なんとなく、そんな感じがした。
「ユングは新しい福音たりうるか」(8月31日付)は、僕の3本目の論文になるはずだったが、日の目を見なかった。ただ、この論文は、あまりできはよくない。2本目の論文のほうが、よく書けていると思う。この二つの論文は、いくつかの出版社に持ち込んだが、ほとんど、最初から相手にしてくれなかった。2本とも持ち込んだのが、岩波書店である。冷たく拒否された。この出版社は、河合隼雄が人気作家も顔負けするほどの売れっ子になるのに手を貸した。河合のようないかがわしい、いんちき本を書くやつには、ヘラヘラ笑いを浮かべてゴマをすって、僕のように質の高い立派な論文を書く人物には、突慳貪に冷たくあしらうのである。これが日本を代表する、アカデミックな社風を有する出版社の実態である。空っぽ頭の、考える力のないやつらの寄せ集めなのである。ぜひとも告発しておかないといけないと思った。
学習研究社は、横柄で態度のでかい出版社である。自分を何様だと思っているのだろう。こんな出版社が、教育・学習関連の図書を出版しているのは、子どもの教育上極めてよろしくない。しかも、この会社は「心のノート」なんかも制作しているのである。実にけしからん。悪徳商人め。
2013年12月23日月曜日
パソコンの不調(3)
(このサイトについては、古いほうから順に読んでいただいたほうがよろしいかと思います。)
「パソコンの不調(2)」で、
パソコンの不調(画像がゆがんだりすること)が、
今日はひとりでに直っていた。
と書いたが、その後、今度はパソコンの電源が切
れなくなった。Windowsをシャットダウンして、電
源が切れる直前に画面が暗くなる。そこでストップ
してしまうのである。電源ボタン押した直後のよう
な状態である。ノートパソコンだから、コンセントを
抜いてもバッテリーが空になるまでそのままである。
電源ボタンを押しても、うんともすんとも言わない
ので、バッテリーが空になるまでパソコンが使えない
。その間、約8時間、何もできないのである。
やっとパソコンを起動できたかと思うと、今度は、
また画像がゆがんだり、変な色が着いている。あー
あ、またやられたかと思いながら、しばらくすると、ま
たひとりでに元に戻って正常になった。
パソコンを相手にするのは、疲れ果てていけない
。
「パソコンの不調(2)」で、
パソコンの不調(画像がゆがんだりすること)が、
今日はひとりでに直っていた。
と書いたが、その後、今度はパソコンの電源が切
れなくなった。Windowsをシャットダウンして、電
源が切れる直前に画面が暗くなる。そこでストップ
してしまうのである。電源ボタン押した直後のよう
な状態である。ノートパソコンだから、コンセントを
抜いてもバッテリーが空になるまでそのままである。
電源ボタンを押しても、うんともすんとも言わない
ので、バッテリーが空になるまでパソコンが使えない
。その間、約8時間、何もできないのである。
やっとパソコンを起動できたかと思うと、今度は、
また画像がゆがんだり、変な色が着いている。あー
あ、またやられたかと思いながら、しばらくすると、ま
たひとりでに元に戻って正常になった。
パソコンを相手にするのは、疲れ果てていけない
。
2013年12月22日日曜日
2013年12月21日土曜日
九の矢について
九の矢について
「九の矢」は、創価学会(Soka Gakkai)
を批判したものであるが、ちょっと言葉が激しすぎ
たかもしれない。言い過ぎた面もあると思う。これ
も、ある懸念があるからである。
公明党(Komeito,創価学会をバックに持
つ政党)を見ていると、みんな同じだなあと感じる
。みんな一斉に右手を上げる。みんな一斉に左
足を上げる。みんな一斉にウィンクする。みんな一
斉にこける。みんな一斉にパンツを洗濯する。みん
な一斉にオナラをする。悪法の強行採決でも同じ
だ。とにかく、いいのか悪いのか分からないけれども
、党の上のほうが、いや自民党が決めたことだ。右
手を挙げろ、と言われたら挙げなければならないの
である。その悪法が、将来牙をむいてくるのは自
分たちに対してであることに気がつかない。とにかく
、反対意見・少数派を許さないのである。今まで
に、公明党で造反議員が出たためしがない。みん
な同じ色の服を着ましょうね。ちょっと、そこの君、
服の色が違うじゃないか。しかも、デザインも違う。
おい、みんな、こいつを袋叩きにしてやろうぜ、とい
うわけである。今までに、自分の頭でものを考えた
ことのないやつらの寄せ集めなのである。もしも、
公明党で造反議員がいたら、党を除名されるどこ
ろか半殺しの目に遭うだろう。
ここが、恐ろしいところなのである。創価学会・
公明党は、将来いつか日本を制覇しようと企んで
いると思う。もしも創価学会が天下を取ったら、ど
んな国に日本はなるだろう。全体主義国家である
。ただひとつの価値観を、すべての構成員に押し
つける。それに反対するものは許さない。少数意見・少数派が粛清される。秘密警
察が、市民の日常・生活を覗き込んでいる。第2
次大戦前夜の悪夢が蘇えってくる。
やはり公明党は潰しておかないといけない。ヨー
ロッパにも宗教を背景にした政党があるではない
か、「キリスト教なんとか同盟」などのような、と言っ
てもしようがない。それは、ドイツ人ならドイツ人が
考えることだ。人が交通信号を無視しているから
、俺たちも信号を無視しようぜ、というのは間違っ
ている。「幸福の科学」(Institute for
Research in Human
Happiness)も政界への進出を企んでいるよ
うだが、これも阻止しておかないといけない。これは
昔話に教えてもらった、超越的世界から賜物
(gift)をもらいうけたならば、その賜物を現世
で使ってはならないという真理(「再び 旧版『ユン
グ心理学批判』の要約」(9月4日付)参
照、See “Supplement to the Summary”(31 August))にもとづく僕の信念である。
「九の矢」は、創価学会(Soka Gakkai)
を批判したものであるが、ちょっと言葉が激しすぎ
たかもしれない。言い過ぎた面もあると思う。これ
も、ある懸念があるからである。
公明党(Komeito,創価学会をバックに持
つ政党)を見ていると、みんな同じだなあと感じる
。みんな一斉に右手を上げる。みんな一斉に左
足を上げる。みんな一斉にウィンクする。みんな一
斉にこける。みんな一斉にパンツを洗濯する。みん
な一斉にオナラをする。悪法の強行採決でも同じ
だ。とにかく、いいのか悪いのか分からないけれども
、党の上のほうが、いや自民党が決めたことだ。右
手を挙げろ、と言われたら挙げなければならないの
である。その悪法が、将来牙をむいてくるのは自
分たちに対してであることに気がつかない。とにかく
、反対意見・少数派を許さないのである。今まで
に、公明党で造反議員が出たためしがない。みん
な同じ色の服を着ましょうね。ちょっと、そこの君、
服の色が違うじゃないか。しかも、デザインも違う。
おい、みんな、こいつを袋叩きにしてやろうぜ、とい
うわけである。今までに、自分の頭でものを考えた
ことのないやつらの寄せ集めなのである。もしも、
公明党で造反議員がいたら、党を除名されるどこ
ろか半殺しの目に遭うだろう。
ここが、恐ろしいところなのである。創価学会・
公明党は、将来いつか日本を制覇しようと企んで
いると思う。もしも創価学会が天下を取ったら、ど
んな国に日本はなるだろう。全体主義国家である
。ただひとつの価値観を、すべての構成員に押し
つける。それに反対するものは許さない。少数意見・少数派が粛清される。秘密警
察が、市民の日常・生活を覗き込んでいる。第2
次大戦前夜の悪夢が蘇えってくる。
やはり公明党は潰しておかないといけない。ヨー
ロッパにも宗教を背景にした政党があるではない
か、「キリスト教なんとか同盟」などのような、と言っ
てもしようがない。それは、ドイツ人ならドイツ人が
考えることだ。人が交通信号を無視しているから
、俺たちも信号を無視しようぜ、というのは間違っ
ている。「幸福の科学」(Institute for
Research in Human
Happiness)も政界への進出を企んでいるよ
うだが、これも阻止しておかないといけない。これは
昔話に教えてもらった、超越的世界から賜物
(gift)をもらいうけたならば、その賜物を現世
で使ってはならないという真理(「再び 旧版『ユン
グ心理学批判』の要約」(9月4日付)参
照、See “Supplement to the Summary”(31 August))にもとづく僕の信念である。
2013年12月20日金曜日
九の矢
(この矢は、組織としての創価学会を狙ったものであって、構成員である学会員の皆さんを狙ったものではありません。)
九の矢
原発政策を推進してきたのは、自民党と公明
党である。ところが、あの原発事故が起きたときに
は、どうしたわけか民主党が政権の座にいた。民
主党の原発事故に対する対応が不手際だと批
判されて、政権の座を追われた。民主党に代わっ
て政権をとったのが、自民党・公明党であったとは
なんという皮肉な結果であろうか。自民党や公明
党の政治家は切腹ものではなかったのか。こんな
妙なことになっているから、先般、空っぽ頭の、も
のを考える力のない安部晋三が提出した恐ろし
い悪法を強行採決しやがったではないか。
特に忌まわしいのは公明党である。もしも公明
党が野党であったら、絶対反対を叫ぶだろう。とこ
ろが、今は自民党にくっついて甘い汁を吸おうとし
ている。すると、手のひらを返して、諸手を挙げて
賛成するのである。頭、空っぽのハイルヒトラーだ
。だから、創価学会・公明党(Souka G
akkai)は自分の頭でものを考えたことのないや
つらの寄せ集めだと言っている。日本史上、最低
レベルの悪質な宗教団体だ。社会的システムとし
ては、ヤクザ集団(Yakuza)と同じである。社
会のはみ出し者・落ちこぼれ・ごろつきのようなや
つらが、寄り集まってお互いの傷を舐めあっている
場なのである。世界中の皆さん、このこともよく覚
えておいてください。創価学会は世界に進出しよ
うと企んでいますよ。くれぐれも、お気をつけください
。
「ダンナ、今日は、また素敵なお洋服ですね。」
「へへっ。いえ、なになに。そちらさんこそ、今日はス
カッとした、いいお顔をしていらっしゃる。」
普段、人から優しい言葉をかけてもらったり、大事
にされたり、敬意を表わされたり、信頼されたりし
たことの一度もない者達が、創価学会の集会に
出席しては、ほんわかとした、いい気分になって帰
宅の途につく。「ああ、ほんとに創価の会員になっ
てよかったなあ。」
いつまでも、退廃的なぬるま湯につかっていたいの
か。このぬるま湯は、人と人との結びつきを獲得したものではない。ひとは、このぬるま湯につかりながら、同時に極寒の世界へとトリップする。草も木も生えない荒地、たったひとりぼっちの世界である。
以前、僕が住んでいた家の右隣と向かいの家が
創価学会だった。ずいぶんと悲惨な環境だったわ
けである。ある日、右隣のおばさんが家の前の掃
き掃除をしていた。そこへ、何かの新聞の勧誘員
がやってきた。新聞勧誘員の執拗な勧誘にめげ
もせず、むしろ手玉にとって軽く扱うように、しかも
相手を見下した実に冷たい態度であしらっていた
。大声で話しているので、家の中にいる僕の耳に
もはっきりと聞こえてくるのである。そのうちに、勧誘
員が創価学会の会員であることが判明した。この
ときの創価おばさんの変わり身のすばやさといった
ら、それこそ芸術的である。
「あら、仲間じゃない。それじゃあ、家の中に入って
お茶でも飲んでいかない?」
と、きた。そして、ふたり仲良く家の中に入っていっ
た。きっと中では、「歩き回るの、大変ね。ゆっくり
していきなさいよ。さ、コーヒーにケーキ。残り物だ
けど、ちらし寿司もありますよ」とかなんとか言って、
盛大にもてなしているのだろう。
ひとは、とにかく他人を色眼鏡で見る傾向にある
。われわれは、この色眼鏡を、できうる限り取りは
ずすように努めなければならない。そうしなければ、
精神的成長もありえないだろう。色眼鏡とは、相手の人格を見る目を曇らせるものである。色眼鏡は、人格と人格の結びつきを阻害する。色眼鏡は人格と人格の出会いを妨害する。創価学会は、このような色眼鏡をかけよ、それも度つきの真っ黒な
スーパー色眼鏡をかけよ、と信者を誘導して奨励
しているのである。
創価学会が、単なる仲良しクラブであったなら、
それもそれで存在意義がないわけでもないだろう。
ところが、それが宗教団体を看板に掲げる、政治
の世界に進出する。こうなると、その恐ろしさ、いか
がわしさは極点にまで達する。日本史上、最低
最悪の宗教団体だ。創価信者の皆さん。いつま
でも、そんな薄汚いぬるま湯につかっていてはいけ
ない。目を覚ませ。第一、創価学会を巨大にした
、あの胡散臭い準教祖は、犯罪者ではないか。
犯罪者の宗教団体に、明日はない。
九の矢
原発政策を推進してきたのは、自民党と公明
党である。ところが、あの原発事故が起きたときに
は、どうしたわけか民主党が政権の座にいた。民
主党の原発事故に対する対応が不手際だと批
判されて、政権の座を追われた。民主党に代わっ
て政権をとったのが、自民党・公明党であったとは
なんという皮肉な結果であろうか。自民党や公明
党の政治家は切腹ものではなかったのか。こんな
妙なことになっているから、先般、空っぽ頭の、も
のを考える力のない安部晋三が提出した恐ろし
い悪法を強行採決しやがったではないか。
特に忌まわしいのは公明党である。もしも公明
党が野党であったら、絶対反対を叫ぶだろう。とこ
ろが、今は自民党にくっついて甘い汁を吸おうとし
ている。すると、手のひらを返して、諸手を挙げて
賛成するのである。頭、空っぽのハイルヒトラーだ
。だから、創価学会・公明党(Souka G
akkai)は自分の頭でものを考えたことのないや
つらの寄せ集めだと言っている。日本史上、最低
レベルの悪質な宗教団体だ。社会的システムとし
ては、ヤクザ集団(Yakuza)と同じである。社
会のはみ出し者・落ちこぼれ・ごろつきのようなや
つらが、寄り集まってお互いの傷を舐めあっている
場なのである。世界中の皆さん、このこともよく覚
えておいてください。創価学会は世界に進出しよ
うと企んでいますよ。くれぐれも、お気をつけください
。
「ダンナ、今日は、また素敵なお洋服ですね。」
「へへっ。いえ、なになに。そちらさんこそ、今日はス
カッとした、いいお顔をしていらっしゃる。」
普段、人から優しい言葉をかけてもらったり、大事
にされたり、敬意を表わされたり、信頼されたりし
たことの一度もない者達が、創価学会の集会に
出席しては、ほんわかとした、いい気分になって帰
宅の途につく。「ああ、ほんとに創価の会員になっ
てよかったなあ。」
いつまでも、退廃的なぬるま湯につかっていたいの
か。このぬるま湯は、人と人との結びつきを獲得したものではない。ひとは、このぬるま湯につかりながら、同時に極寒の世界へとトリップする。草も木も生えない荒地、たったひとりぼっちの世界である。
以前、僕が住んでいた家の右隣と向かいの家が
創価学会だった。ずいぶんと悲惨な環境だったわ
けである。ある日、右隣のおばさんが家の前の掃
き掃除をしていた。そこへ、何かの新聞の勧誘員
がやってきた。新聞勧誘員の執拗な勧誘にめげ
もせず、むしろ手玉にとって軽く扱うように、しかも
相手を見下した実に冷たい態度であしらっていた
。大声で話しているので、家の中にいる僕の耳に
もはっきりと聞こえてくるのである。そのうちに、勧誘
員が創価学会の会員であることが判明した。この
ときの創価おばさんの変わり身のすばやさといった
ら、それこそ芸術的である。
「あら、仲間じゃない。それじゃあ、家の中に入って
お茶でも飲んでいかない?」
と、きた。そして、ふたり仲良く家の中に入っていっ
た。きっと中では、「歩き回るの、大変ね。ゆっくり
していきなさいよ。さ、コーヒーにケーキ。残り物だ
けど、ちらし寿司もありますよ」とかなんとか言って、
盛大にもてなしているのだろう。
ひとは、とにかく他人を色眼鏡で見る傾向にある
。われわれは、この色眼鏡を、できうる限り取りは
ずすように努めなければならない。そうしなければ、
精神的成長もありえないだろう。色眼鏡とは、相手の人格を見る目を曇らせるものである。色眼鏡は、人格と人格の結びつきを阻害する。色眼鏡は人格と人格の出会いを妨害する。創価学会は、このような色眼鏡をかけよ、それも度つきの真っ黒な
スーパー色眼鏡をかけよ、と信者を誘導して奨励
しているのである。
創価学会が、単なる仲良しクラブであったなら、
それもそれで存在意義がないわけでもないだろう。
ところが、それが宗教団体を看板に掲げる、政治
の世界に進出する。こうなると、その恐ろしさ、いか
がわしさは極点にまで達する。日本史上、最低
最悪の宗教団体だ。創価信者の皆さん。いつま
でも、そんな薄汚いぬるま湯につかっていてはいけ
ない。目を覚ませ。第一、創価学会を巨大にした
、あの胡散臭い準教祖は、犯罪者ではないか。
犯罪者の宗教団体に、明日はない。
パソコンの不調
パソコンの不調
パソコンの状況が惨憺たるものになってきた。起動して画面が真っ暗なときに、夜空に無数の緑色の星が浮かぶように、緑色の点がまたたく。また、変な色が入力画面や作業画面についている。とにかく、文字が読みにくい、画像がゆがんでいる。ただでさえ、目のたちが悪いのだから(「アレルギー」参照)、これ以上、目に負担をかけさせるな。犯罪に等しい。
このサイトの更新が、うまくできたかどうかも分からないのである。テンプレートの変更も、ちゃんとできたかどうか心もとない。確かめようとしても、どうなっているのか画面がおかしくて確かめることができない。
いよいよ抹殺しにかかってくるのかな。交通事故に遭うとか、訳の分からない病気になるとか、そんな単純なことではないかもしれない。もっと手の込んだ手法かもしれない。被害者ではなく加害者にしてしまうとか、極悪人に仕立てるとかして抹殺するのかもしれない。いったい何者なのだろう、こいつらは。
パソコンの状況が惨憺たるものになってきた。起動して画面が真っ暗なときに、夜空に無数の緑色の星が浮かぶように、緑色の点がまたたく。また、変な色が入力画面や作業画面についている。とにかく、文字が読みにくい、画像がゆがんでいる。ただでさえ、目のたちが悪いのだから(「アレルギー」参照)、これ以上、目に負担をかけさせるな。犯罪に等しい。
このサイトの更新が、うまくできたかどうかも分からないのである。テンプレートの変更も、ちゃんとできたかどうか心もとない。確かめようとしても、どうなっているのか画面がおかしくて確かめることができない。
いよいよ抹殺しにかかってくるのかな。交通事故に遭うとか、訳の分からない病気になるとか、そんな単純なことではないかもしれない。もっと手の込んだ手法かもしれない。被害者ではなく加害者にしてしまうとか、極悪人に仕立てるとかして抹殺するのかもしれない。いったい何者なのだろう、こいつらは。
2013年12月19日木曜日
取り消しました
取り消しました
「ロジャーズでは何の役にも立たないことが判明した」という発言を撤回します。「ロジャーズ」とは、C・R・RogersのClient Centered Therapyのことです。「六の矢」、「敵は本能寺にあり」の該当部分を削除しました。
この発言について、その根拠を問われて考えてみました。それで、次のようにお答えしました。
1970年代だったでしょうか。日本にカウンセリングというものが持ち込まれました。それがロジャーズの来談者中心療法でした。この来談者中心療法こそ、カウンセリングの典型です。それ以外は、洗脳・マインドコントロールにすぎません。猫も杓子も「受容・共感・一致」という観がありました。ところが、1990年代頃に急激に下火になっていきました。それに代わって、優勢になったのがユング派でした。来談者中心療法では役に立たないと絶望したロジャーズ派のカウンセラーの多くが、ユング派に転向した結果だろうと考えました。これでは根拠は弱いでしょうか。そうですね。弱いかもしれませんね。この点を考えているうちに、別のケースもありうるかなということに気がつきました。ユング派に転向したのは、そんなカウンセラーばかりでもなさそうだと考えるようになりました。もしかしたら、当時売れに売れていた河合隼雄の著書を手にとって見て、夢中になりすっかりユング心理学の虜になってしまった人もいるかもしれません。そうすると、この場合は、来談者中心療法が無効だから転向したのではなく、隣にもっと強力な劇薬(悪魔がくれた薬)があると考えて転向したのかもしれません。ユング派の氏原寛を見るがいい。自分の人生の一大事を、自分で決めるのではなく、赤の他人に決めてもらうほど情けない、大人になっていない者だから(「那須与一、引き絞って矢を放つ」参照。11月5日付)、このような裏切り・不倫みたいなことをしでかすのです。
「来談者中心療法は役に立たないことが判明した」という発言を撤回します。僕のWebサイトでも、同様に取り消すことにします。
「ロジャーズでは何の役にも立たないことが判明した」という発言を撤回します。「ロジャーズ」とは、C・R・RogersのClient Centered Therapyのことです。「六の矢」、「敵は本能寺にあり」の該当部分を削除しました。
この発言について、その根拠を問われて考えてみました。それで、次のようにお答えしました。
1970年代だったでしょうか。日本にカウンセリングというものが持ち込まれました。それがロジャーズの来談者中心療法でした。この来談者中心療法こそ、カウンセリングの典型です。それ以外は、洗脳・マインドコントロールにすぎません。猫も杓子も「受容・共感・一致」という観がありました。ところが、1990年代頃に急激に下火になっていきました。それに代わって、優勢になったのがユング派でした。来談者中心療法では役に立たないと絶望したロジャーズ派のカウンセラーの多くが、ユング派に転向した結果だろうと考えました。これでは根拠は弱いでしょうか。そうですね。弱いかもしれませんね。この点を考えているうちに、別のケースもありうるかなということに気がつきました。ユング派に転向したのは、そんなカウンセラーばかりでもなさそうだと考えるようになりました。もしかしたら、当時売れに売れていた河合隼雄の著書を手にとって見て、夢中になりすっかりユング心理学の虜になってしまった人もいるかもしれません。そうすると、この場合は、来談者中心療法が無効だから転向したのではなく、隣にもっと強力な劇薬(悪魔がくれた薬)があると考えて転向したのかもしれません。ユング派の氏原寛を見るがいい。自分の人生の一大事を、自分で決めるのではなく、赤の他人に決めてもらうほど情けない、大人になっていない者だから(「那須与一、引き絞って矢を放つ」参照。11月5日付)、このような裏切り・不倫みたいなことをしでかすのです。
「来談者中心療法は役に立たないことが判明した」という発言を撤回します。僕のWebサイトでも、同様に取り消すことにします。
2013年12月16日月曜日
河合隼雄のウソツキ退職
河合隼雄のウソツキ退職
「河合隼雄の犯罪」へのアクセスが非常に多いようですが、「那須与一、将に射むとす」(10月18日付)のほうが分かりやすく整理してあります。できれば、そちらのほうを御覧ください。“ウソツキ退職”と名づけたのは、河合(Hayao Kawai)が自らを“日本ウソツキクラブ会長”と名のっていたからです。ふざけた、人を馬鹿にした人物ではありませんか。こんなやつが、道徳の副教材“心のノート”を作成したのですよ。しかも、それを多額の税金を使って日本の子ども全員に配布したのです。信じられますか。子ども達のことを一向に構わないで、ゴロツキを優遇し援助する国。これでは、日本という国は、ふざけた始末の悪い国ということになってしまいますね。世界中から軽蔑されるのではないでしょうか。
「河合隼雄の犯罪」へのアクセスが非常に多いようですが、「那須与一、将に射むとす」(10月18日付)のほうが分かりやすく整理してあります。できれば、そちらのほうを御覧ください。“ウソツキ退職”と名づけたのは、河合(Hayao Kawai)が自らを“日本ウソツキクラブ会長”と名のっていたからです。ふざけた、人を馬鹿にした人物ではありませんか。こんなやつが、道徳の副教材“心のノート”を作成したのですよ。しかも、それを多額の税金を使って日本の子ども全員に配布したのです。信じられますか。子ども達のことを一向に構わないで、ゴロツキを優遇し援助する国。これでは、日本という国は、ふざけた始末の悪い国ということになってしまいますね。世界中から軽蔑されるのではないでしょうか。
2013年12月15日日曜日
海が見ていた
太陽がいっぱいだ。とても、いい気分だ。燦燦と降り注ぐ太陽の光。きらめくような青い海。
あいつの金を奪った。恋人も、今では俺のものだ。誰にもあいつを殺すところを見られなかった。証拠なんか、どこにもない。死体は、布袋か何かに入れて海に捨てた。完全犯罪だ。
ちょうどその頃、ヨットが陸に引き揚げられるところだった。ヨットが何かを引きずっていた。スクリューに巻きついた縄の先には、布袋のようなものがあった。「おい、あれは何だ」と駆け寄る人々。ヨットは航行中、ずっとその布袋を海の中で引き回していたのである。
映画「太陽がいっぱい」のラストシーンである。あの美しいテーマ曲が流れていた。この映画は、一度しか見たことがないので、細部において間違いがあるかもしれない。
誰も見ていなかったはずの殺人事件の犯人を、海が見ていて告発したのである。大自然が、ちゃんと見ていた。そして、証人になった。
推理小説の結末を書いたりしては、まずいだろう。それこそ営業妨害だ。しかし、これは推理小説ではない。それに、他のWebサイトで、あらすじを書いているのが幾つもある。古い映画だし、構わないのかな、と思った。
反自然、反宗教、反芸術、反倫理、反人間、そして反世界。これが、ユング心理学である。個性化の終着駅は、マンダラの顕現である。その終着駅に着くと、人は人間性を失う。暖かい血の通っていない冷血動物になる。それでいながら、人からは優しそうな、とても立派な人のように見えるから不思議なのだ。終着駅は、始発駅でもある。今度は、どの駅に向けて列車は折り返して発車するのだろう。
こいつらは、言っておくが、陰でコソコソ何をやっているのか分からないやつらなのだ。狂信者とはそういうものである。何かとてつもない悪事を、全世界がびっくり仰天するような悪事を行っているかもしれないのである。何しろ悪を否定しない心理学なのだから。
神が、ただ黙って見ているだけだとしても、海が、森が、山が、小さな可憐な野の花が、大自然が、人の内なる自然が告発してくれるだろう。
あいつの金を奪った。恋人も、今では俺のものだ。誰にもあいつを殺すところを見られなかった。証拠なんか、どこにもない。死体は、布袋か何かに入れて海に捨てた。完全犯罪だ。
ちょうどその頃、ヨットが陸に引き揚げられるところだった。ヨットが何かを引きずっていた。スクリューに巻きついた縄の先には、布袋のようなものがあった。「おい、あれは何だ」と駆け寄る人々。ヨットは航行中、ずっとその布袋を海の中で引き回していたのである。
映画「太陽がいっぱい」のラストシーンである。あの美しいテーマ曲が流れていた。この映画は、一度しか見たことがないので、細部において間違いがあるかもしれない。
誰も見ていなかったはずの殺人事件の犯人を、海が見ていて告発したのである。大自然が、ちゃんと見ていた。そして、証人になった。
推理小説の結末を書いたりしては、まずいだろう。それこそ営業妨害だ。しかし、これは推理小説ではない。それに、他のWebサイトで、あらすじを書いているのが幾つもある。古い映画だし、構わないのかな、と思った。
反自然、反宗教、反芸術、反倫理、反人間、そして反世界。これが、ユング心理学である。個性化の終着駅は、マンダラの顕現である。その終着駅に着くと、人は人間性を失う。暖かい血の通っていない冷血動物になる。それでいながら、人からは優しそうな、とても立派な人のように見えるから不思議なのだ。終着駅は、始発駅でもある。今度は、どの駅に向けて列車は折り返して発車するのだろう。
こいつらは、言っておくが、陰でコソコソ何をやっているのか分からないやつらなのだ。狂信者とはそういうものである。何かとてつもない悪事を、全世界がびっくり仰天するような悪事を行っているかもしれないのである。何しろ悪を否定しない心理学なのだから。
神が、ただ黙って見ているだけだとしても、海が、森が、山が、小さな可憐な野の花が、大自然が、人の内なる自然が告発してくれるだろう。
2013年12月14日土曜日
『ゲド戦記』とユング心理学(旧版から)
『ゲド戦記』とユング心理学(旧版から)
最近『ゲド戦記』という少年少女向けの作品がアニメ映画化されたそうです。私は、まだ若かった頃、今からかれこれ20年位前の話ですが、この原作を一度読んでしまうと、もう二度とページを繰る気にはなれませんでした。私が読んだのは「影との戦い」でしたが、これは『ゲド戦記』の一部だったのでしょうか。それ以上詳しくは知らないのですが。
ストーリーは、完全にユング心理学をなぞったものでした。影(元型の影。shadow)からのすさまじい攻撃にさらされ、苦しめられていた主人公が、結局、影は私自身だ、と喝破した途端に、それまでの影の激烈さ・過酷さが嵐の海が急に凪ぐようにおさまった、というような話であったと思います。ズバリ、ユング心理学そのものです。
確かに精神分析においては、自己の内の奥深くに潜む悪なるものやおぞましいものを意識化することは大切なことだとされています。しかし、ユング派(精神分析の亜流)における悪なるものやおぞましいものの意識化とは、つまり影の意識化とは、自我がそれを意識化してコントロールするというようなレベルの問題を超えているのです。
たとえば、次のようなたとえ話を考えてみてください。あるところに小さな国がありました。その国は、常に山賊の来襲の脅威にさらされています。近くの山に山賊の巣があるのです。ことあるごとに、山賊たちが襲ってきては、国中を荒らしまわり、略奪していきます。そこでその国の王様は、軍隊を率いて何度も何度も山賊を攻撃しました。しかし、どうしても山賊の本拠を攻め落とすことができませんでした。そのうち、王国の民は疲弊し、経済は次第に衰退していきました。王国自体が傾きかけて非常に危うい状態になってしまいました。王様は、だんだん元気がなくなっていきました。そしてある日、いつものように浮かない顔でふさぎこんでいた王様は、いきなり膝をポンとたたいて、大声を出して言いました。「そうじゃ、山賊は私自身だ」と。あまりの声の大きさに傍で控えていた家来たちはびっくり仰天して、思わず顔を見合わせてしまいました。王様はと言えば、いつもの暗い顔もどこへやら、ぱっと明るい顔になってすっかり元気を取り戻しています。そして、ひとりでぶつぶつと呟いていました。「とうとう、わしは悟ったぞ。これはまさにコペルニクス的転回じゃ」と。それから急いで山賊の首領あての親書をしたためました。親書には、貴殿とともにこの王国を共同統治したい、と書かれていました。王様の使いの者が親書を山賊に届けると、山賊たちはすぐさま威風堂々と王様の居城に乗り込んできました。王様は、最上級の礼をもって山賊を迎え入れ、心をこめてもてなしました。そしてその翌日から王様と山賊の首領との共同による王国統治が始まりました。月日が流れました。王様は少しずつ、権力からはずされていきました。そしてその分、山賊の首領の権力が大きくなっていきました。やがて、王様の実権はすべて奪われてしまって、ただの飾り物のようになってしまいました。
ユング心理学における影の意識化とは、この愚かな王様のたとえ話のような意味での意識化です。つまり、自我(王)が影(山賊)をおのれ自身のうちに取り込んでしまうような意識化なのです。このような意識化と、無意識的なものを意識化してコントロールするという意味における意識化(精神分析本流のとりわけ自我心理学における立場)との間には格段の差があります。やはり、山賊は何が何でも平定して牢に入れておかねばならないのです。
ユング心理学における個性化の出発点は、このような影の自覚にあるようです。これはもう周囲の人々からすれば悪魔のようなもののように見えることでしょう。しかし、そうは言っても山賊(影)に関していえば、本来の山賊そのものとはちょっと違ってきているのではないかとも思います。自我は確かに山賊(影)によって乗っ取られたのですが、山賊自身にも何らかの外見的な変容が生じているのでしょうか。以前の山賊のようなストレートであからさまな悪ではなく、ちょっと妙な言い方になるのですが、外見的・表面的にはもっと洗練されたエレガントな悪になっているようです。王の居城に乗り込んで行って王国の共同統治者になったわけですから、いつまでも山賊の身なりをしているわけにもいかないのでしょう。さらに奇妙な言い方をすれば、マフィアが貴族化したのだとでも言いましょうか。だけど、それでも山賊はやはり山賊なのです。その本質において何ら変わりはありません。いや、貴族化したマフィアは、いかにもそれらしいマフィアよりももっと恐ろしいとも言えるでしょう。他者に対して、一見やさしそうな態度を示しているかに見えて、結果的には人の人格を平気で踏みにじるのです。これは、カルト的な団体につきものの共通の特徴です。自分達の思想こそが絶対であると信じ込んだとき、この思想がなければ自分はこの世でやっていけないと思い込んだとき、人はどんなに人に対して残酷になれるものなのでしょうか。自分達の思想に従わない者・反対する者に対して、それが彼らのためだ、という御旗のもとに自分勝手な“折伏”が行われ人格が踏みにじられるのです。
ところで、『ゲド戦記』に関してですが、この作品には何の芸術的価値もないと思います。ユングの奇矯な思想をなぞっただけの代物です。たとえどんなに沢山の人が読んだとしても、この評価は変わりません。『ハリー・ポッター』シリーズが、どんなに世界中の多くの人々に読まれようが、芸術とは言えないのと同じです。とにかく、ある作品に芸術的価値があるかどうかということと、多くの“同時代の”人が読んだり見たりするかどうかということとは別問題です。私も若い頃に夢中になって読みふけっていた吉川英治や横溝正史の作品が、どんなに多くの読者を獲得しても芸術作品として論じられることは、まずないのです。
大衆文学(通俗小説)と呼ばれるものと純文学とを比較した場合、前者のほうは後者よりもはるかに多くの読者を獲得しています。ベストセラーになった作品には前者のものが多いのです。ユング的に言いますと、多くの人に親しまれている、多くの人が手にとって読んでいるということは、それだけ集合性(ユングの概念である集合的無意識のcollective性)をよく表わしているということになるでしょう。つまり、早い話がユングの思想というものは、芸術性よりも大衆性とか通俗性により親近性があるのではないか、ということなのです。ユングの見方・概念に立脚するならば、大衆性とか通俗性のほうが芸術性よりも集合的無意識の集合性をよく表わしているはずではないでしょうか。そのように考えてみれば、河合隼雄の著書が、どうしてこんなにも売れてもてはやされて、あたかも人気作家のような観を呈しているのかということの理由が納得できるのではないでしょうか。それなのに、ユング思想の信奉者になると、突如として芸術に対して興味・関心を持ち始めます。実に矛盾した不思議な話です。
そして大衆性とか通俗性というものは、ある意味では俗物根性と連関するものでしょう。底の知れないような権力欲、出世欲、名誉欲は河合隼雄が以前から堂々と(というか臆面もなく)示してきたものです。私は主張したいのです。ひとたび神を垣間見たような経験をした者が俗物根性のとりこになってはならぬ、と。ユング心理学の個性化の終着点はセルフ(self自己=マンダラ)の出現であり、それはまさに神の裳裾に触れるような経験(超越的経験)です。ひとたび神を垣間見た人は、どうしてもある程度は現世的な幸福を断念しなければなりません。ひとたび龍宮城へとおもむき、そこでの饗宴にあずかった浦島太郎は、たとえ再びこの世に帰還したとしても、この世の幸福は彼の手に再び入ることはありません。もう以前のような形での環境との相互作用を、彼は持つことができないのです。浦島太郎のこの世における居場所はなくなってしまいました。ユング心理学における治癒はセルフ(マンダラ)の出現によってなされるのですが、これは神の恩寵による救済に似た超越的な経験です。いわば彼岸からの賜物なのです。彼岸からの賜物(心の安寧)を受けた者は、此岸での幸福(とりわけ出世や権力の掌握)にも同時にあずかることはできません。両方とも手に入れようなどという欲張りなことは許されません。どっちも欲しいなどと言ったら、たちまちのうちに天上世界からまっ逆様に転落してしまいます。そして、折角の彼岸からの賜物(心の安寧)さえも手放さなければなりません。これこそが悪魔の正体です。悪魔は、いかにもそれらしい顔つきでわれわれの前に現われるのではありません。そんなことはめったにありません。むしろ、やさしそうで魅力的な風貌をして現われてきます。ヒトラーは、近隣諸国の指導者達もうらやむほど演説が上手で大衆の人気がありました。ユング派における個性化は、その出発点においても(つまり、影の自覚)その終着点においても(つまり、セルフ=マンダラの出現)、それが一匹の悪魔の新たな誕生であることを如実に示しています。
ところで、彼岸からの賜物(心の安寧)を取り上げられてしまった悪魔はその後どうするのでしょうか。自己顕示欲の強さゆえに世間に聖なる経験をしたことが認められてしまっている以上、今更それが御破算になってしまっていることを表明するわけにはいかないかもしれません。そんな勇気がないかもしれません。そうすると、それを糊塗するために、益々俗物的なものにしがみつかなければならなくなるのでしょう。出世・権力の掌握・栄誉などに心の空洞を埋めるものを求めるかもしれません。超越的経験をした者にこれらのものが許されないのは、これらのものの本質が他者を支配しコントロールすることにあるからでしょう。そもそも彼岸からの賜物を受けて心の安寧を得たのは超越的な領域の出来事であり、その反面、他者を支配しコントロールするのは現世的で世俗的な領域での事柄です。俗事を超えた超越的な領域で何らかの力を得た者が、全く次元の異なる領域でその力を振るおうとするところに、恐ろしさがあるのでありまさに冒涜的な行為であるわけです。それは、超越的な経験によって獲得したものさえも、ガラガラと崩れ去ってしまうような振る舞いです。そうすると、歴史上にもこのようなニセモノの聖者が結構いることに気がつきます。怪僧とか破戒僧とかと呼ばれている者はその最たるものです。真の聖者はこの点について慎重にならざるを得ません。ですから、真の聖者は清貧に甘んじ、世間の片隅でひっそりと暮らしてきました。歴史上、名を残すこともあまりないでしょう。ただ聖者とは言っても、生きていく上での必要最小限の欲望の充足は許容できるのではないかとは思います。ですが、出世欲、権力欲、名誉欲、支配欲、甚だしい金銭欲は論外です。
さらに心理療法家としてのアイデンティティに、せっかくの彼岸からの賜物を手放してしまったことの埋め合わせを求めるかもしれません。世間一般の常識として、まさか心理療法家が悪魔であって、しかも精神異常者であろうとは中々思い至らないものです。心理療法家としての職業は、ユンギアンにとって自身の本来の姿を偽る格好の隠れ蓑を提供することになります。しかし、ひとたび超越的体験をもった者が、人を癒してやろうなどと考えてはいけないのです。超越的経験によって得たものを元手にして人を癒し金を稼ごうというのは、甚だしい冒涜です。それは前に述べたような天上世界からの転落の一因になることですし、超越的な体験をした者自身の意識において何らかの変容を生じさせると思われます。その意識における変容とは、この現実世界から次第に遠ざかっていく、自分は確かにこの世界に身を置いているはずなのに、それにもかかわらずこの世界に何かヴェールがかかってでもいるかのように世界が薄れていって味気ないものになっていってしまうというような感覚・感情ではないでしょうか。このような感覚・感情は、無意識的である場合が多いでしょう。どんなに豪奢な生活をしているとしても、その生活からその当の本人自身が目に見えない薄い膜によって隔てられているような状態ではないでしょうか。生そのものが無意味になってしまって変質しているのです。これは、すべてのユンギアンについて言えることです。心理療法家というアイデンティティにしがみつく限り決して逃れることはできません。その根本原因が、超越的な体験という僥倖と言っても構わないものを経験しておきながら、心理療法家という職業に身を置いていることなのです。ユンギアンの場合のこのアイデンティティ(特に、超越的経験と心理療法とを結びつけるユング派に限ります)は、まさに超越的な経験をした者が他者を支配しコントロールしようとする大罪を犯すものです。S・フロイトは、ユング派に関して(フロイト自身は「スイス学派」と呼んでいますが)次のように述べて批判しています。「救いを求めてわれわれの手に委ねられる患者を、われわれの所有物にしてしまい、彼の運命を彼に代って作り出し、われわれの理想を押附け、造物主の高慢さをもって自分の気に入るようにわれわれ自身の似姿に彼らを仕立て上げるというようなことを、われわれは断乎として拒否したのでありました。」(「精神分析療法の道」改訂版フロイド選集・第15巻、204頁) 自分は超越的経験をしたのだという意識(浄土真宗で言う本願ぼこりのような意識)、自分はこの思想(ユングの思想)がなければこの世でやっていけないという意識、だからみんなこの思想の恩恵に浴すべきだという意識が他人に対する押しつけがましい態度となって表われてくるのでしょう。河合隼雄が「心のノート」を作成したことにも、日本中の子供達の心をいかにもやさしそうな語り口でコントロールし、操作しようとする意図が透けて見えます。「心のノート」にユング心理学が表立って表われてはいないにしても、河合は、最終的には日本人の多くをユング教の信者に転向させたがっていたのではないでしょうか。いやしくも、超越的な経験をしておきながら、それを他者に押しつけようとし、しかも他者をコントロールしようなどとすることは超越的経験自体への冒涜以外の何ものでもありません。こうして腐敗し変質してしまった超越的経験は、毒をもって当人自身に襲いかかり(これは、無意識の領域でのことかもしれません)、そして社会にもその害悪を垂れ流し始めるのです。それは、いつも悪事をなしている者が意識的には罪の意識なんか全く感じていないと思っていたとしても、無意識において(夢において)結局自分自身を許してはいないのであって、どんなにぜいたくで華やかな暮らしをしていたとしても、その優雅な生活を真に味わうことができないという心理的な事実によって無意識からのしっぺい返しを受けているのと同じです。ユンギアンにとって臨床家というアイデンティティは最悪のアイデンティティです。俗物性とともに、このアイデンティティはせっかくの超越的経験を台無しにしてしまい、天上世界から墜落せしめてしまいます。
某巨大宗教団体の名誉会長も、聖者であると自他ともに認めながらも、金にあかせて(信者からまきあげた金をばら撒いて)外国の勲章や名誉市民の称号を買い漁っています。もしも本当に悟りを開いたような境地に達しているのなら、外国の勲章や称号などどうでもよいのではないかな、と思ってしまいます。彼は、勲章を授与する時の外国の勲章授与者の内心を忖度してみたことがあるのでしょうか。腹の中では次のように考えてあざ笑っていることでしょう。「何が宗教指導者だ。宗教指導者が聞いてあきれるわい。信者からまきあげた金をばら撒いて勲章が欲しいなどとはな。しかし、ここは多額の金員を頂戴したことでもあるし、ひとつ我慢して神妙な顔つきで勲章を恵んでやるか。」と。つまるところは、わざわざ多額の金を使って世界中に恥をばら撒いているわけです。しかも子供がおもちゃを自慢するのと同じように、聖者であると自他ともに認める者が勲章や称号をひけらかすなどもってのほかです。聖人が俗物根性のとりこになった時、これほど恐ろしく危険なものはありません。いや、本来、聖人と俗物根性とは両立するものではありません。ということは、どちらかがニセモノなのです。そのふりをしているのです。ニセモノなのは、一体どちらでしょうか。もうあえて申し上げるまでもありますまい。
世間では聖なるものを極めたか(聖なるものを体験したか)のように受け取られながらも、同時にすさまじいばかりの俗物根性を発揮するという点において河合隼雄とこの宗教団体の名誉会長とはよく似ています。ふたりは双子の兄弟ででもあるかのようです。実際に非常に仲が好いとも言われています。ふたりとも、ひとたび聖なるものを体験したにもかかわらず、俗物根性のとりこになることによって、その折角の貴重な体験を台無しにしてしまっています。その聖なるものの体験が、俗物根性のために変質し腐ってしまっています。ところが、どうしたわけか大衆的人気のほうは一向に衰える兆しがありません。これは実に不思議なことです。聖なるものをはるかに上回るレベルの強大な俗物根性にとらわれているからなのでしょうか。
文学との関連において考えてみれば、芸術性の高い純文学よりも大衆文学(通俗小説)のほうが人気を博し読者を多く獲得することと相関関係があるのかもしれません。そうして、芸術はユング派が非常に興味・関心を寄せているものであるにもかかわらず、ユング派は芸術の芸術性を取り違えています。彼らのグループの中からは、芸術は生み出されてはきません。実際に、今までそんなためしは一切ありませんでした。今後もそうでしょう。ユングの考え方に夢中になってしまったヘルマン・ヘッセは、やがて小説を書けなくなりました。河合隼雄は、フルートの演奏会をよく開催していたようですが、その演奏に芸術性はありません(「ユングは芸術の破壊者?」参照)。せいぜい河合は、そのカウンセリングに関する著作において大人気を博するくらいが関の山でしょう。これは、文学の領域で言えば、純文学ではなく大衆文学に相当するものです。もちろん、カウンセリング関係の著書と芸術性とを同じ俎上に乗せること自体はおかしいのですが、彼らがあまりにも芸術うんぬんということをもったいぶって話題にするのでそれを承知の上であえて述べてみました。だいたい集合的無意識(collective unconsciousness)などという訳の分からない奇妙なものを根本概念に据えるからいけないのです。しかも、芸術の創作活動の根源が、集合的無意識のとりわけセルフにある、などと馬鹿げたことを考えるからいけないのです。芸術芸術と偉そうに言いながら、集合的無意識をよく表現しているのは芸術性ではなくて、大衆性や通俗性のはずではありませんか(文学では、純文学ではなく大衆文学)。そして、ユングの思想をただなぞっているように見える『ゲド戦記』については、そこに芸術的価値を認めることはできません。ユング思想にかぶれている人が読めば興味深く読めるのかもしれませんが、この作品全編には何の芸術的な美もありません。聖なる体験と俗物根性が両立しないのと同様に、芸術と俗物性も両立するものではありません。
最近『ゲド戦記』という少年少女向けの作品がアニメ映画化されたそうです。私は、まだ若かった頃、今からかれこれ20年位前の話ですが、この原作を一度読んでしまうと、もう二度とページを繰る気にはなれませんでした。私が読んだのは「影との戦い」でしたが、これは『ゲド戦記』の一部だったのでしょうか。それ以上詳しくは知らないのですが。
ストーリーは、完全にユング心理学をなぞったものでした。影(元型の影。shadow)からのすさまじい攻撃にさらされ、苦しめられていた主人公が、結局、影は私自身だ、と喝破した途端に、それまでの影の激烈さ・過酷さが嵐の海が急に凪ぐようにおさまった、というような話であったと思います。ズバリ、ユング心理学そのものです。
確かに精神分析においては、自己の内の奥深くに潜む悪なるものやおぞましいものを意識化することは大切なことだとされています。しかし、ユング派(精神分析の亜流)における悪なるものやおぞましいものの意識化とは、つまり影の意識化とは、自我がそれを意識化してコントロールするというようなレベルの問題を超えているのです。
たとえば、次のようなたとえ話を考えてみてください。あるところに小さな国がありました。その国は、常に山賊の来襲の脅威にさらされています。近くの山に山賊の巣があるのです。ことあるごとに、山賊たちが襲ってきては、国中を荒らしまわり、略奪していきます。そこでその国の王様は、軍隊を率いて何度も何度も山賊を攻撃しました。しかし、どうしても山賊の本拠を攻め落とすことができませんでした。そのうち、王国の民は疲弊し、経済は次第に衰退していきました。王国自体が傾きかけて非常に危うい状態になってしまいました。王様は、だんだん元気がなくなっていきました。そしてある日、いつものように浮かない顔でふさぎこんでいた王様は、いきなり膝をポンとたたいて、大声を出して言いました。「そうじゃ、山賊は私自身だ」と。あまりの声の大きさに傍で控えていた家来たちはびっくり仰天して、思わず顔を見合わせてしまいました。王様はと言えば、いつもの暗い顔もどこへやら、ぱっと明るい顔になってすっかり元気を取り戻しています。そして、ひとりでぶつぶつと呟いていました。「とうとう、わしは悟ったぞ。これはまさにコペルニクス的転回じゃ」と。それから急いで山賊の首領あての親書をしたためました。親書には、貴殿とともにこの王国を共同統治したい、と書かれていました。王様の使いの者が親書を山賊に届けると、山賊たちはすぐさま威風堂々と王様の居城に乗り込んできました。王様は、最上級の礼をもって山賊を迎え入れ、心をこめてもてなしました。そしてその翌日から王様と山賊の首領との共同による王国統治が始まりました。月日が流れました。王様は少しずつ、権力からはずされていきました。そしてその分、山賊の首領の権力が大きくなっていきました。やがて、王様の実権はすべて奪われてしまって、ただの飾り物のようになってしまいました。
ユング心理学における影の意識化とは、この愚かな王様のたとえ話のような意味での意識化です。つまり、自我(王)が影(山賊)をおのれ自身のうちに取り込んでしまうような意識化なのです。このような意識化と、無意識的なものを意識化してコントロールするという意味における意識化(精神分析本流のとりわけ自我心理学における立場)との間には格段の差があります。やはり、山賊は何が何でも平定して牢に入れておかねばならないのです。
ユング心理学における個性化の出発点は、このような影の自覚にあるようです。これはもう周囲の人々からすれば悪魔のようなもののように見えることでしょう。しかし、そうは言っても山賊(影)に関していえば、本来の山賊そのものとはちょっと違ってきているのではないかとも思います。自我は確かに山賊(影)によって乗っ取られたのですが、山賊自身にも何らかの外見的な変容が生じているのでしょうか。以前の山賊のようなストレートであからさまな悪ではなく、ちょっと妙な言い方になるのですが、外見的・表面的にはもっと洗練されたエレガントな悪になっているようです。王の居城に乗り込んで行って王国の共同統治者になったわけですから、いつまでも山賊の身なりをしているわけにもいかないのでしょう。さらに奇妙な言い方をすれば、マフィアが貴族化したのだとでも言いましょうか。だけど、それでも山賊はやはり山賊なのです。その本質において何ら変わりはありません。いや、貴族化したマフィアは、いかにもそれらしいマフィアよりももっと恐ろしいとも言えるでしょう。他者に対して、一見やさしそうな態度を示しているかに見えて、結果的には人の人格を平気で踏みにじるのです。これは、カルト的な団体につきものの共通の特徴です。自分達の思想こそが絶対であると信じ込んだとき、この思想がなければ自分はこの世でやっていけないと思い込んだとき、人はどんなに人に対して残酷になれるものなのでしょうか。自分達の思想に従わない者・反対する者に対して、それが彼らのためだ、という御旗のもとに自分勝手な“折伏”が行われ人格が踏みにじられるのです。
ところで、『ゲド戦記』に関してですが、この作品には何の芸術的価値もないと思います。ユングの奇矯な思想をなぞっただけの代物です。たとえどんなに沢山の人が読んだとしても、この評価は変わりません。『ハリー・ポッター』シリーズが、どんなに世界中の多くの人々に読まれようが、芸術とは言えないのと同じです。とにかく、ある作品に芸術的価値があるかどうかということと、多くの“同時代の”人が読んだり見たりするかどうかということとは別問題です。私も若い頃に夢中になって読みふけっていた吉川英治や横溝正史の作品が、どんなに多くの読者を獲得しても芸術作品として論じられることは、まずないのです。
大衆文学(通俗小説)と呼ばれるものと純文学とを比較した場合、前者のほうは後者よりもはるかに多くの読者を獲得しています。ベストセラーになった作品には前者のものが多いのです。ユング的に言いますと、多くの人に親しまれている、多くの人が手にとって読んでいるということは、それだけ集合性(ユングの概念である集合的無意識のcollective性)をよく表わしているということになるでしょう。つまり、早い話がユングの思想というものは、芸術性よりも大衆性とか通俗性により親近性があるのではないか、ということなのです。ユングの見方・概念に立脚するならば、大衆性とか通俗性のほうが芸術性よりも集合的無意識の集合性をよく表わしているはずではないでしょうか。そのように考えてみれば、河合隼雄の著書が、どうしてこんなにも売れてもてはやされて、あたかも人気作家のような観を呈しているのかということの理由が納得できるのではないでしょうか。それなのに、ユング思想の信奉者になると、突如として芸術に対して興味・関心を持ち始めます。実に矛盾した不思議な話です。
そして大衆性とか通俗性というものは、ある意味では俗物根性と連関するものでしょう。底の知れないような権力欲、出世欲、名誉欲は河合隼雄が以前から堂々と(というか臆面もなく)示してきたものです。私は主張したいのです。ひとたび神を垣間見たような経験をした者が俗物根性のとりこになってはならぬ、と。ユング心理学の個性化の終着点はセルフ(self自己=マンダラ)の出現であり、それはまさに神の裳裾に触れるような経験(超越的経験)です。ひとたび神を垣間見た人は、どうしてもある程度は現世的な幸福を断念しなければなりません。ひとたび龍宮城へとおもむき、そこでの饗宴にあずかった浦島太郎は、たとえ再びこの世に帰還したとしても、この世の幸福は彼の手に再び入ることはありません。もう以前のような形での環境との相互作用を、彼は持つことができないのです。浦島太郎のこの世における居場所はなくなってしまいました。ユング心理学における治癒はセルフ(マンダラ)の出現によってなされるのですが、これは神の恩寵による救済に似た超越的な経験です。いわば彼岸からの賜物なのです。彼岸からの賜物(心の安寧)を受けた者は、此岸での幸福(とりわけ出世や権力の掌握)にも同時にあずかることはできません。両方とも手に入れようなどという欲張りなことは許されません。どっちも欲しいなどと言ったら、たちまちのうちに天上世界からまっ逆様に転落してしまいます。そして、折角の彼岸からの賜物(心の安寧)さえも手放さなければなりません。これこそが悪魔の正体です。悪魔は、いかにもそれらしい顔つきでわれわれの前に現われるのではありません。そんなことはめったにありません。むしろ、やさしそうで魅力的な風貌をして現われてきます。ヒトラーは、近隣諸国の指導者達もうらやむほど演説が上手で大衆の人気がありました。ユング派における個性化は、その出発点においても(つまり、影の自覚)その終着点においても(つまり、セルフ=マンダラの出現)、それが一匹の悪魔の新たな誕生であることを如実に示しています。
ところで、彼岸からの賜物(心の安寧)を取り上げられてしまった悪魔はその後どうするのでしょうか。自己顕示欲の強さゆえに世間に聖なる経験をしたことが認められてしまっている以上、今更それが御破算になってしまっていることを表明するわけにはいかないかもしれません。そんな勇気がないかもしれません。そうすると、それを糊塗するために、益々俗物的なものにしがみつかなければならなくなるのでしょう。出世・権力の掌握・栄誉などに心の空洞を埋めるものを求めるかもしれません。超越的経験をした者にこれらのものが許されないのは、これらのものの本質が他者を支配しコントロールすることにあるからでしょう。そもそも彼岸からの賜物を受けて心の安寧を得たのは超越的な領域の出来事であり、その反面、他者を支配しコントロールするのは現世的で世俗的な領域での事柄です。俗事を超えた超越的な領域で何らかの力を得た者が、全く次元の異なる領域でその力を振るおうとするところに、恐ろしさがあるのでありまさに冒涜的な行為であるわけです。それは、超越的な経験によって獲得したものさえも、ガラガラと崩れ去ってしまうような振る舞いです。そうすると、歴史上にもこのようなニセモノの聖者が結構いることに気がつきます。怪僧とか破戒僧とかと呼ばれている者はその最たるものです。真の聖者はこの点について慎重にならざるを得ません。ですから、真の聖者は清貧に甘んじ、世間の片隅でひっそりと暮らしてきました。歴史上、名を残すこともあまりないでしょう。ただ聖者とは言っても、生きていく上での必要最小限の欲望の充足は許容できるのではないかとは思います。ですが、出世欲、権力欲、名誉欲、支配欲、甚だしい金銭欲は論外です。
さらに心理療法家としてのアイデンティティに、せっかくの彼岸からの賜物を手放してしまったことの埋め合わせを求めるかもしれません。世間一般の常識として、まさか心理療法家が悪魔であって、しかも精神異常者であろうとは中々思い至らないものです。心理療法家としての職業は、ユンギアンにとって自身の本来の姿を偽る格好の隠れ蓑を提供することになります。しかし、ひとたび超越的体験をもった者が、人を癒してやろうなどと考えてはいけないのです。超越的経験によって得たものを元手にして人を癒し金を稼ごうというのは、甚だしい冒涜です。それは前に述べたような天上世界からの転落の一因になることですし、超越的な体験をした者自身の意識において何らかの変容を生じさせると思われます。その意識における変容とは、この現実世界から次第に遠ざかっていく、自分は確かにこの世界に身を置いているはずなのに、それにもかかわらずこの世界に何かヴェールがかかってでもいるかのように世界が薄れていって味気ないものになっていってしまうというような感覚・感情ではないでしょうか。このような感覚・感情は、無意識的である場合が多いでしょう。どんなに豪奢な生活をしているとしても、その生活からその当の本人自身が目に見えない薄い膜によって隔てられているような状態ではないでしょうか。生そのものが無意味になってしまって変質しているのです。これは、すべてのユンギアンについて言えることです。心理療法家というアイデンティティにしがみつく限り決して逃れることはできません。その根本原因が、超越的な体験という僥倖と言っても構わないものを経験しておきながら、心理療法家という職業に身を置いていることなのです。ユンギアンの場合のこのアイデンティティ(特に、超越的経験と心理療法とを結びつけるユング派に限ります)は、まさに超越的な経験をした者が他者を支配しコントロールしようとする大罪を犯すものです。S・フロイトは、ユング派に関して(フロイト自身は「スイス学派」と呼んでいますが)次のように述べて批判しています。「救いを求めてわれわれの手に委ねられる患者を、われわれの所有物にしてしまい、彼の運命を彼に代って作り出し、われわれの理想を押附け、造物主の高慢さをもって自分の気に入るようにわれわれ自身の似姿に彼らを仕立て上げるというようなことを、われわれは断乎として拒否したのでありました。」(「精神分析療法の道」改訂版フロイド選集・第15巻、204頁) 自分は超越的経験をしたのだという意識(浄土真宗で言う本願ぼこりのような意識)、自分はこの思想(ユングの思想)がなければこの世でやっていけないという意識、だからみんなこの思想の恩恵に浴すべきだという意識が他人に対する押しつけがましい態度となって表われてくるのでしょう。河合隼雄が「心のノート」を作成したことにも、日本中の子供達の心をいかにもやさしそうな語り口でコントロールし、操作しようとする意図が透けて見えます。「心のノート」にユング心理学が表立って表われてはいないにしても、河合は、最終的には日本人の多くをユング教の信者に転向させたがっていたのではないでしょうか。いやしくも、超越的な経験をしておきながら、それを他者に押しつけようとし、しかも他者をコントロールしようなどとすることは超越的経験自体への冒涜以外の何ものでもありません。こうして腐敗し変質してしまった超越的経験は、毒をもって当人自身に襲いかかり(これは、無意識の領域でのことかもしれません)、そして社会にもその害悪を垂れ流し始めるのです。それは、いつも悪事をなしている者が意識的には罪の意識なんか全く感じていないと思っていたとしても、無意識において(夢において)結局自分自身を許してはいないのであって、どんなにぜいたくで華やかな暮らしをしていたとしても、その優雅な生活を真に味わうことができないという心理的な事実によって無意識からのしっぺい返しを受けているのと同じです。ユンギアンにとって臨床家というアイデンティティは最悪のアイデンティティです。俗物性とともに、このアイデンティティはせっかくの超越的経験を台無しにしてしまい、天上世界から墜落せしめてしまいます。
某巨大宗教団体の名誉会長も、聖者であると自他ともに認めながらも、金にあかせて(信者からまきあげた金をばら撒いて)外国の勲章や名誉市民の称号を買い漁っています。もしも本当に悟りを開いたような境地に達しているのなら、外国の勲章や称号などどうでもよいのではないかな、と思ってしまいます。彼は、勲章を授与する時の外国の勲章授与者の内心を忖度してみたことがあるのでしょうか。腹の中では次のように考えてあざ笑っていることでしょう。「何が宗教指導者だ。宗教指導者が聞いてあきれるわい。信者からまきあげた金をばら撒いて勲章が欲しいなどとはな。しかし、ここは多額の金員を頂戴したことでもあるし、ひとつ我慢して神妙な顔つきで勲章を恵んでやるか。」と。つまるところは、わざわざ多額の金を使って世界中に恥をばら撒いているわけです。しかも子供がおもちゃを自慢するのと同じように、聖者であると自他ともに認める者が勲章や称号をひけらかすなどもってのほかです。聖人が俗物根性のとりこになった時、これほど恐ろしく危険なものはありません。いや、本来、聖人と俗物根性とは両立するものではありません。ということは、どちらかがニセモノなのです。そのふりをしているのです。ニセモノなのは、一体どちらでしょうか。もうあえて申し上げるまでもありますまい。
世間では聖なるものを極めたか(聖なるものを体験したか)のように受け取られながらも、同時にすさまじいばかりの俗物根性を発揮するという点において河合隼雄とこの宗教団体の名誉会長とはよく似ています。ふたりは双子の兄弟ででもあるかのようです。実際に非常に仲が好いとも言われています。ふたりとも、ひとたび聖なるものを体験したにもかかわらず、俗物根性のとりこになることによって、その折角の貴重な体験を台無しにしてしまっています。その聖なるものの体験が、俗物根性のために変質し腐ってしまっています。ところが、どうしたわけか大衆的人気のほうは一向に衰える兆しがありません。これは実に不思議なことです。聖なるものをはるかに上回るレベルの強大な俗物根性にとらわれているからなのでしょうか。
文学との関連において考えてみれば、芸術性の高い純文学よりも大衆文学(通俗小説)のほうが人気を博し読者を多く獲得することと相関関係があるのかもしれません。そうして、芸術はユング派が非常に興味・関心を寄せているものであるにもかかわらず、ユング派は芸術の芸術性を取り違えています。彼らのグループの中からは、芸術は生み出されてはきません。実際に、今までそんなためしは一切ありませんでした。今後もそうでしょう。ユングの考え方に夢中になってしまったヘルマン・ヘッセは、やがて小説を書けなくなりました。河合隼雄は、フルートの演奏会をよく開催していたようですが、その演奏に芸術性はありません(「ユングは芸術の破壊者?」参照)。せいぜい河合は、そのカウンセリングに関する著作において大人気を博するくらいが関の山でしょう。これは、文学の領域で言えば、純文学ではなく大衆文学に相当するものです。もちろん、カウンセリング関係の著書と芸術性とを同じ俎上に乗せること自体はおかしいのですが、彼らがあまりにも芸術うんぬんということをもったいぶって話題にするのでそれを承知の上であえて述べてみました。だいたい集合的無意識(collective unconsciousness)などという訳の分からない奇妙なものを根本概念に据えるからいけないのです。しかも、芸術の創作活動の根源が、集合的無意識のとりわけセルフにある、などと馬鹿げたことを考えるからいけないのです。芸術芸術と偉そうに言いながら、集合的無意識をよく表現しているのは芸術性ではなくて、大衆性や通俗性のはずではありませんか(文学では、純文学ではなく大衆文学)。そして、ユングの思想をただなぞっているように見える『ゲド戦記』については、そこに芸術的価値を認めることはできません。ユング思想にかぶれている人が読めば興味深く読めるのかもしれませんが、この作品全編には何の芸術的な美もありません。聖なる体験と俗物根性が両立しないのと同様に、芸術と俗物性も両立するものではありません。
(2006.10.7)
Devil's Psychology
Don't accept psychology that does not
reject evil.
We must not permit the existence of it.
悪を否定しない心理学を認めてはならない。実に恐ろしい。心理学の看板を掲げながら、悪を取り込んでしまうとは。それが存在することさえ容認してはならない。
2013年12月3日火曜日
時効は司法制度における概念である
(このサイトについては、古いほうから順に読んでいただいたほうがよろしいかと思います。)
時効は司法制度における概念である
時効は、司法制度の範囲内だけの概念である。その他において、例えば大学制度・教育制度や道徳体系においては、時効という概念は存在しない。したがって、裁判所に告訴することはできないが、それとは別の次元から罪の償いをしてもらわなければ困る。
時効は司法制度における概念である
時効は、司法制度の範囲内だけの概念である。その他において、例えば大学制度・教育制度や道徳体系においては、時効という概念は存在しない。したがって、裁判所に告訴することはできないが、それとは別の次元から罪の償いをしてもらわなければ困る。
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