2014年4月25日金曜日

人間性を失う心理学

 ユング心理学における“個性化”(individualization)とは、一見、強力な治癒をもたらすかに見えるけれども、人間性を失うことである。人間が人間でなくなることである。河合隼雄のファンである作家、村上春樹が雑誌等に登場する様子をご覧いただきたい。人間の顔をしていないではないか。暖かい人間の血が通っているのか疑問に感じてしまうではないか。
 河合隼雄が人間でないなら、河合の弟子も又弟子も河合かぶれ・ユングかぶれした人々も不道徳で冷酷で非人間的である。ユング心理学は、全人格に関わる心理学だからである。また、河合隼雄から逆に遡って見てみれば、河合にユング心理学を学ぶことを強制したアメリカ人かスイス人のJungianも、不道徳で冷酷で非人間的である。自我が確立していない、主体性の欠如した河合は実際に、ユング心理学を学ぶことを強制されたようである。そうすると、これをさらに遡っていけば必然的に、Carl Gustav Jung本人も人間ではないことになる。当然であろう。終日、ひとり薄暗い部屋に閉じ籠って、何やら訳の分からないことをぶつぶつ呟いて、それで精神が健全になるわけがないではないか。
 そうすると、世界中のJungianやそのファンは、 不道徳で冷酷で非人間的であるということになる。世界中の方々に訴える。ぜひとも、こいつらを社会から追放していただきたい。

 「酵素の話」(20131120日付け参照)と「自然療法」(20131122日付け参照)について、若干、手を加えた(青いフォントで表示)。他にも数箇所、付け加えたところもあるが、取り立てて言うべきほどのことでもないので、やめておく。

2014年4月10日木曜日

小中学校の教員の皆さんへ

(このサイトについては、古いほうから順に読んでいただいたほうがよろしいかと思います。)

 道徳の準教科書「私たちの道徳」が、既に学校に届いていると思います。この「私たちの道徳」を、まともに使う必要はありません。直ちに廃棄処分にするなり、焼却処分にするなりしていただいて結構かと存じます。職員室の片隅に山積みにしておかれてもよろしいでしょうが、それではあまりにも目ざわりで仕方がないでしょう。文部科学省は、「私たちの道徳」をいい加減に取り扱っても、まったく活用しなくても、一切、文句を言うことができないのです。勿論、そのような教員を処分する権限もありません。(「八の矢」2013年12月28日付参照)。いくら慌てて名称変更しても、「心のノート」の後継版であることに変わりはありません。ですから、安心して処分してください。
 不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄(「河合隼雄の犯罪」2013年9月1日付、「冷血動物著『心のノート』」2013年12月24日付参照)を、中央教育審議会(中教審)(河合隼雄が最初に審議会の委員になったのは、確か中教審だったと思います。おそらく文部官僚の肝煎りでなったのでしょう)などの各種審議会の委員や座長に委嘱し、文化庁長官に起用し、挙句の果てには、日本の子ども全員に配布される道徳の副教材「心のノート」を作成させました。そして、道徳の副教材「心のノート」の改訂版を、道徳の準教科書「私たちの道徳」に格上げして、この4月から配布することになりました。国費の無駄遣いも甚だしいではありませんか。それどころか、国費の悪用と言ってもよいでしょう。なんという愚かで浅はかな人々でしょうか。日本の将来の国民を怪物だらけにしたい、とでもいうのでしょうか。
 そのような道徳の準教科書「私たちの道徳」を、授業で使用するわけにはいかないでしょう。有害図書でもって、生徒に教えるわけにはいかないでしょう。どうか、堂々と処分してください。それで、文部科学省が文句を言い出したら、それはゴロツキかヤクザの言いがかりみたいなものです。不道徳で冷酷で非人間的な犯罪者・河合隼雄を重用するような役所だからでしょうか。

2014年2月28日金曜日

人間的な交流に背を向ける

人間的な交流に背を向ける

 ユング心理学(Jungian Psychology)は、人と人とのコミュニケーションに背を向ける心理学である。人と人が対面する。その間に、何かが介在する。人と向き合うときに、日本の古代の帝王のように、衝立か御簾を間において対峙しているのである。ここで衝立か御簾とは、集合的無意識とか元型とかと呼ばれる訳の分からないありもしない素っ頓狂な観念である。従って、ユング心理学においては、人と人との触れ合いは皆無である。
 このようなユング派の河合隼雄(Hayao Kawai)が、道徳の副教材「心のノート」を作成した。そのとき、押谷由夫という人物も「心のノート」作成の協力委員のひとりだったと思う。昨年から今年にかけての「心のノート」の改訂版の作成にあたっても、中心的な役割を果たしている。押谷由夫という人物は、河合と考え方が似ている人物なのだろう。河合ファンであるかもしれない。だから、押谷由夫もそうであろうし、「心のノート」も「私たちの道徳」も、その執筆者達はおしなべて河合隼雄的な考え方や生き方をしている人たちなのだろう。
 要するに、「心のノート」も、その後継版「私たちの道徳」も、あの不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄色、ユング心理学の色彩に染まっているのである。ということは、人と人とのコミュニケーションができない人物達によって、「心のノート」も、その後継版「私たちの道徳」も執筆・作成されたということである。「心のノート」や「私たちの道徳」の執筆者が、自分自身の経験に基づいて書いたものではないということである。観念から導き出された考えを著しているにすぎない。日常のちょっとしたつまづきを経験したことによる心の痛み、苦しみ、悲しみも何もない。他者と心の関わりを持ったことから生ずる喜びや幸福感もない。他者とのコミュニケーションを体験できない人物が執筆した「心のノート」や「私たちの道徳」を、子ども達に配ってもなんになろう。無益であるどころか、むしろ有害であろう。愛を知らなかった夏目漱石の恋愛を扱った小説を(例えば、『それから』などを)、恋愛について学ぶつもりで読んでみたところで、何の足しにもならない。むしろ害になるばかりである(「愛を知らずして人生が語れるか、心の問題を論じることができるか」2月7日付け参照)。

 僕は、「心のノート」の後継版「私たちの道徳」が、この4月から日本の子ども全員に配布されるのを阻止しようとしている。ところが、薄っぺらな愛国心の持ち主であり(「不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄が作成した『心のノート』の後継版によって日本人のアイデンティティを確立するのか」2月4日付け参照)、精神年齢が子どもの年齢に等しい(「内なる悪を同化すれば、それは即ち悪魔である」2月23日付け参照)安部晋三の内閣の支持率が一向に下がらず、国会も安部晋三内閣を退陣させることができないため、2月28日には2014年度の予算案が衆議院を通過しそうなのである。そうなると、「私たちの道徳」の配布が確定したことになるだろう。ちょっと絶望的な気分になってきた。

2014年2月27日木曜日

空中の楼閣で相撲をとる

今日も、やはりおかしな文章表示だ。何者が邪魔しているのだろう。


空中の楼閣で相撲をとる


 Aというユンギアン(Jungian)がいたとしよう。

Aは、B子さんという女性に愛を告白する。しかし

、この愛の告白は、Aの心の中の女性像(ユング

心理学では、アニマ(anima)と呼ばれる)をB

子さんに投げかけて、B子さんその人ではなく、暖

かい血の通っている生身のB子さんその人ではなく

、Aの心の中の女性像に愛を告白しているのであ

る。本質的・根本的には、AはB子さんとの心の

交流が全くないのである。ユンギアンとは、おしなべ

て愛を知らない人ばかりである。
 このような他者との関わりの仕方は、ユング派に

おいては、何もアニマの元型だけに限らず、影

(shadow)などの元型についても同様のことが

生じている。また、人と人とのコミュニケーションだけ

ではない。人類の歴史や社会や文化や芸術を見

るときにも、その見方のおいて上述のようなことに

類することが起きているのである。つまり、

Jungianが自分勝手に作り上げた空中の楼

閣に土俵を拵えて、その土俵の上で相撲をとって

いるのである。空中の楼閣とは、集合的無意識と

か元型とかのユング心理学における、ありもしない

概念のことである(「心の中の女性像は魂ではな

い」2013年11月24日付参照)。このような空

中の楼閣は、時が経てば、やがて幻のように消え

失せていってしまうことだろう。

2014年2月23日日曜日

内なる悪を同化すれば、それは即ち悪魔である

(この表示、今日は誰かに邪魔されているのかな。)


内なる悪を同化すれば、それは即ち悪魔である


 安部晋三(Shinzo Abe)は、どうやら個人

的な自身の足場固めをしっかりとしないまま、いき

なり全体へと跳ね上がり、愛国主義者になってい

るらしい(「不道徳で冷酷で非人間的な河合隼

雄が作成した『心のノート』の後継版によって日本

人のアイデンティティを確立するのか」2月4日付

参照)。2013年の年末の靖国神社参拝は、自

分がこのように行動すれば他人(他国)はどう感じ

るか、ということを予測し考慮したことのない人物

の行動である。ダボスでの、第1次世界大戦前の

英独関係になぞらえた発言は、自分がこれから述

べることを他人がどのように受けとめるだろうか、と

いうようなことを配慮し予想したことのない人物の

発言である。能天気なものである。精神年齢が

子どもの年齢である。実に幸せな人物である。子

どもは大体、幸せなものである、のではないだろう

か。「心のノート」とか、「私たちの道徳」とか、くそ

面白くもない、見ていて頭が痛くなるような、誰か

の屁の匂いがそこはかとなく漂ってくるような(「ステ

ーション」2013年10月29日付参照)、偽善的

な匂いをぷんぷんさせている冊子を、「読め!」と

強制されなければ。これでは、フォアグラを生産す

るために大量の餌を強制的に食べさせられる鵞

鳥と同じである。そうすると、今の子どもは不幸で

あること極まりない。
 自分の言動を近所の人がどのように受けとめる

か、ということを考慮し予測しないで振舞う空っぽ

頭のShinzo Abeが一国の宰相であることは

、日本にとって不幸であり、危ういことである。これ

では、台頭してくる中国に対抗できないだろう。こ

のような下敷きがあれば、下手をすれば、不測の

事態の発生があると戦争になるかもしれない。偽

者の愛国主義者(自身の個人的な足場固めを

きちんとしないまま全体へと飛び跳ねている愛国

主義者)が国のリーダーになったら、えてして近隣

諸国との摩擦が生じるものである。そして、その摩

擦が、のっぴきならないところまで行ってしまうもの

である。

 『ゲド戦記』(翻訳書は岩波書店刊)の「影との

戦い」は、影(元型としての影。shadow)は私

自身だと言ったとき、それまでの影の激烈さが収ま

った、というような話であった。つまらぬ書物である

。文学性も何もない。内容も、このように空疎で

ある。よくも児童書として出版したものだ。こんな

悪書を子どもに与えるのは、実にけしからんではな

いか。
 ユング心理学においては、その個性化の初期段

階で、元型としての影を取り入れ、取り込み、同

化する。それは、正統派精神分析(フロイトの精

神分析)で言うところの、抑圧された感情の意識

化とは本質的に異なる。次元が違うのである。正

統派精神分析の場合は、自我が抑圧された感

情を支配しコントロールするために意識化するの

であるが、邪道派精神分析(ユング派、

Jungian)の場合は、自我が乗っ取られてしま

うのである。自我が、元型としての影を取り入れ、

取り込み、同化するのである。悪魔の自我

(devil's ego)になるのである。まさに影

(心の内なる悪なるもの)に、なりきるのである。

Carl Gustav Jungは、とても自我の弱

い人間であったと言われている。そのような人間が

、悪なるものを自我に同化してしまったら、自我は

どうかしてしまうではないか。自我は、ハンドルを制

御できない運転手になってしまう。
 Jungianは、愛を知らないものばかりである(

2月7日付けの「愛を知らずして人生が語れるか

、心の問題を論じることができるか」参照)。それ

なのに、偉そうに心の問題だとか心の教育だとか

説いている。本来、Jungianには、このような

問題を論じる資格がない。世の中には、偽物の

愛が多いから、愛を知らない者が偉そうな顔をし

て勢いづいているのだろうか。愛を知らない者が、

そんな変なことをするな。
 現実の生身の人間との交流を失い、愛を知ら

ない者が、集合的無意識や元型などという、あり

もしない概念に夢中になり、それにのめり込んでい

る。そんなやつらが、影は私自身だ、と叫んでいる

。恐ろしいことではないか。河合隼雄(Hayao

Kawai)の不道徳で冷酷で非人間的な行動

を見るがいい(「愛を知らずして人生が語れるか、

心の問題を論じることができるか」2月7日など参

照)。悪魔の僕ではないか。このようなやつらを野

放しにしておいてはならない。存在することさえ許

してはならない。

2014年2月12日水曜日

インターネットは誰かに支配されているのか

(このサイトについては、古いほうから順に読んでいただいたほうがよろしいかと思います。)

インターネットは誰かに支配されているのか

 僕はこのWebサイトに掲載する記事を、メモ帳で書いてコピー&ペーストしている。Officeが駄目になって、Wordが使えなくなったからである。このサイトのコンテンツをご覧になれば分かるように、表示が改行だらけの実に読みにくいものになっているときと、すっきりときれいになっているときがある。これは、僕がわざとしていることではない。僕には、どうしようもないことなのである。うまくコピー&ペーストできるときと、できないときがある。
 誰かにパソコンを勝手にいじられているか、インターネット自体が何者かによって好き勝手に支配されているとしか考えられない。このサイトのアクセス数が、絶対にありえない数字になっているときもある。
 誰かがインターネットを支配して恣意的に操っているとすれば、すさまじいことになる。例えば、様々なWebサイトで広告を掲載しているが、そのサイトの閲覧数や広告をクリックした数が広告収入の額に影響するのではないだろうか。閲覧数やクリックの数が何者かに好き勝手に操作されていると、広告収入が何者かに恣意的に決められていることになる。インターネットを支配している者達にとって都合のよいWebサイトには多くの広告収入を、気に入らないWebサイトには実際よりも遥かに少ない広告収入を得させることになる。一体、こいつらは何者なのだろうか。NSAだろうか。それとも・・・・。

2014年2月7日金曜日

愛を知らずして人生が語れるか、心の問題を論じることができるか

愛を知らずして人生が語れるか、心の問題を論じることができるか

 夏目漱石(Soseki Natsume)の小説の恋愛を扱ったものに登場するヒロインには、実在感がない。『三四郎』の美ね子(フォントがない。しめすへんに、爾と書くのではなかったか)にしても、『それから』の三千代にしても、『門』のお米にしても、『こころ』のお嬢さんにしても、その息づかいが感じられないのである。おそらく夏目漱石は、愛を知らなかったのだろう。漱石が小説で描いた女性は、たぶんイギリス文学等を読み込んで形成された女性像ではなかっただろうか。それを日本風に書き直しただけだ。観念のみによって紡ぎ出された女性の姿なのである。個人的な経験の裏づけが全くない女性像なのである。だから存在感がない。
 愛を知らない者は、文学者・芸術家になる資格はない。それとともに、愛を知らない者は、心理学者にもなる資格はない。ユング派の河合隼雄(Hayao Kawai)も氏原寛(Hiroshi Ujihara)も、愛を知らないのだろう。愛を知る人が、日本臨床心理学会で、子どもに対して自分が行った心理検査の取り扱いの非人間性を批判されると、かんかんに怒って学会を飛び出して、心理臨床学会などという変な学会を立ち上げるだろうか。2度も詐欺犯罪(ウソツキ退職)をなした者が、愛を知っているわけがなかろう。また、2千人以上もいると考えられる教え子の誰ひとりとして超有名人になったKawaiの思い出話を語りたがらない。Kawaiは、実に愛に遠い存在であった。冷酷で非人間的であった。Hayao Kawaiが、フルートの演奏会を開いていたことを覚えておられるだろうか。心理学関連の自著が売れに売れた。すると、たちまち、俺はフルートも吹けるのだぞと、演奏会を開催する。どうだ、なかなか芸術的だろう、というわけである。まったく、こいつのやっていること、考えていることは訳が分からない。それで、そのフルート演奏は、どのような演奏だったのか。そんなことは聴かなくても分かる。ひどい演奏であった。聞くに堪えない演奏であった。小学校の学芸会の演奏よりもひどかっただろう。愛を知らない者は、芸術にとって門外漢である。芸術にとって、異邦人みたいなものである。
 Hayao Kawaiの弟子のHiroshi Ujiharaも、Kawai同様に愛を知らないにちがいない。それはそうだろう。集合的無意識とか元型とか、訳の分からないありもしないものにとりつかれていては、目の前の生身の人間が、遥かかなたの手の届かないところに遠のいてしまう。ユング心理学とは、愛のない世界で戯言を並べている心理学である。そのUjiharaが、作家になりたいと心理学関連の著書の中で述べていたのである(氏原寛著『カウンセリングの枠組み』ミネルヴァ書房刊)。愛を知らぬものが、文学者になることは不可能である。その上、Ujiharaの文章を、拾い読みでもいいから読んでみるがいい。中学生の作文かと思うほど稚拙なひどい文章なのである。音痴がテノール歌手になりたいと公言しているようなものである。Ujiharaが作家になりたいと公言していたのは、少なくとも2・30年前のことであるが、Ujiharaが作家になって作品を発表したという話は聞いたことがない。ただの訳の分からない戯言だったのである。もっとも、愛を知らない、文章が下手糞だということであれば、作家になれるはずもない。
 偉大な芸術は、個に徹することによって優れた芸術になったのである。逆説的に聞こえるかもしれないが、個に徹することによって普遍性を獲得する。ユング心理学のように普遍と間違って考えているのもの、集合的と誤って看做しているものに根拠を置いてしまったら芸術の創造ができるはずがない。従って、村上春樹や宮崎駿は偽者である。
 不道徳で非人間的で、愛を知らないHayao Kawaiに道徳の教科書の前身である「心のノート」を作成させるとはなにごとか。影の元型(内なる悪なるもの)を自我が取り込んでしまうユング派の親玉に道徳の教科書の前身である「心のノート」を作成させるとはなにごとか。絶対に許さぬ。Shinzo Abe。Hirobumi Shimomura。子ども達に、多額の税金を使って有害図書を配布するな。そんなことをしたら、叩き殺してやるぞ。