森山梧郎
今、ひとつの心理学の流派が日本で影響力を増しつつあるように見える。この心理学の日本における第一人者と目される人物は、教育行政に深く食い込み、日本の子どもたちの将来、ひいてはこの国の未来に対しても重大な影響を及ぼそうとしている。この人物の拠って立つユング心理学とはそもそも何物なのか、いったい何をその心理療法なるものによって目指しているのか、ユング心理学によって達成される人物像とはどのようなものなのか、ということを整理しておくことは極めて重要なことであると考える。なぜならば、この心理学は、その当初から極めて危険なものを内に含んでいるからである。
ユング派が治癒力と考えるものの源泉はセルフ(自己)という元型である。セルフは、曼荼羅のイメージで表されることが多い。このセルフが現れて来なければ、ユング派における治癒はあり得ない。セルフがまだ出現しない段階においては、人の苦悩は癒されるどころか却って深まるばかりである。実生活での惑乱は却ってひどくなり、精神状態は心理療法の前に比べて更に悪化する。セルフの出現によってはじめて、人はある種の落ち着きを取り戻す。このセルフによる落ち着きとは、どのような境地だろうか。おそらく、それは心の中に目に見えない懐炉のようなものが存在し、常時、ぽかぽかと心を暖めているような状態ではないだろうか。人は、「心が寒い」と言うとき、それは侘しさ・寂しさ・虚しさや場合によっては悲しみなどを意味している。セルフによってもたらされる精神的状態は、これらの言葉で表現される感情・情緒や精神的状態とは全く対極的なある種の心の安定である。何というすばらしいことであろう。もしかしたら、これこそ人類にとっての新しい福音とでも言うべきものなのであろうか。
ここで、セルフと神や仏との類似性に着目しておかなければならない。上述のように、セルフがもたらしてくれる治癒は、神の恩寵による救済と極めて類似している。実際にユングは、このセルフのことを「われわれの中の神」①と呼んでいる。そしてユング派では、このセルフから神や仏のイメージが派生してきたのであると考えている。つまりユング派は、神や仏よりも上位の概念としてセルフを据えているのである。神や仏を超える上位概念があるとするならば、神はもう神ではない、仏ももはや仏ではなくなってしまう。従って、ユング派は、本質的に無神論者であると言ってよいであろう。神や仏をセルフによって置き換えた無神論である。ユング派は宗教に対して深い関心を寄せており、さまざまな場面で宗教に関して言及しているのであるが、それは、神とセルフとの類似性ということにもよるが、根本的には自分よりも劣ったものを眺めるまなざし、要するに宗教に対する優越感のような感情も存するのである。
ところでユング派で言うところのセルフは、人の外部に存在するものではなく、人の心の内部のみに存在するものでなければならない。というのは、もしも、セルフが人の外部においても存在するものならば、それは、古来人類が信仰してきた絶対的他者としての神や仏と何ら異なるところがないからである。キリスト教を例にとると、キリスト教における神は、超越的な絶対的他者としての神であって人間の外部に存在する。神が自身の子をイエス・キリストとしてこの世に遣わし、イエスが人の心の中に宿ることはある。聖パウロが「おん子をわたしのうちに喜んで啓示されたとき」②と言う時、パウロの胸の内に、イエス・キリストが宿っていたのではないだろうか。この場合、神とイエスとは同一の位格であるから(三位一体)、神は絶対的他者として人の外部に存在し、それと同時に人の心の内にも宿っているということになる。ユング派のセルフが人の外部にも存在するものと仮定するならば、このキリスト教における神の存在の様式の構図と全く同じものになってしまうのである。そうであるとすると、セルフと神とは実体として同一のものになるはずではないだろうか。この場合にはユング派は、ただ単に神をセルフに置き換えたにすぎないのであって、従来の宗教における考え方と何ら変わりがないことになる。つまり、ユングの思想は宗教思想にほかならないことになってしまう。従って、ユング派が宗教ではなく心理学を看板に掲げようというのならば、ユング派におけるセルフとは、人の外部ではなく人の心の内部のみに存在するものでなければならない。これは要するに、超越的な絶対的他者としての神を否定して、人間が神になるということである。ニーチェの言う如き超人思想であると言ってよいであろう。現にユングは、「これを絶対性(多数の人はこのことに非常に関心を寄せているように思われる)という属性をそなえた、きわめて現世的な『天上の父』として具象化する可能性がある。(中略)そこには哀れな、劣等的な、役立たずな、罪多い塊にすぎぬ人間が残されるだけのことである。」③と述べている。この言葉は、次のようなことを意味している。絶対的な神の前で惨めな罪深い自分をただただ恥じいっているよりも、己れ自身が神に等しい存在となればよい。そうすれば、自分の情けなさ・罪業の深さにくよくよと思い悩む必要もなくなるであろう。たとえ己れが何らかの悪事を働いたとしても、それについて後悔し、己れを責めることはない。己れの悪事によって被害を受けた人に対して謝罪して罪を償う必要もない。無論、神に懺悔して赦しを乞うことも無用である。己れ自身が神なのであるから。そして、実際にユング派は悪を否定しないのである。このように、ユング派の治癒とは、セルフがもたらすある種の安定した心的状態であるけれども、他者の犠牲の上に立った救済である。
一体こんなことがあってよいものだろうか。他者を踏み台にして、自分の心の救いを得るとは。古来の宗教や倫理における常識とは正反対のことではないか。宗教において、他者を食い物にして自分だけが救いを得ることなど偽宗教ならいざ知らずあり得ないことであろう。意識的なものであるにせよ、はっきりと意識されないものであるにせよ、罪責感を持ったまま心の平安に至ることは考えられないことである。どうやらユング派においては、このあり得べからざることが可能であるようである。一体、それは何故なのだろう。
ユング派の自己実現の過程において、一般的にまず取り組まなければならないものは、影(人の心のうちの悪)という元型である。悪を己れのうちに取り入れることによって成長が達成されると考えている。彼らは、心の全体性を獲得するために悪を行う。人が己れの心の奥底に潜む悪に気づくことは確かに重要なことである。悪は恐らく、あらゆる人間の心の中に宿っているものであろう。人は時として全く意図せずに思いもかけぬ仕方で悪を行ってしまうことがある。自分の心の内には悪は存在しない、全くきれいなものだと確信している人がつい陥りがちな罠である。従って、自分の内に潜む悪に全く気づかないよりは、それを意識していることに越したことはない。悪事を為すためでは無論ない。自分の内に潜む悪をコントロールするために、である。心理学的な自我とは、自身の心を統御する、いわば司令塔のようなものである。悪を自覚することは、自我が悪をコントロールするための意識化でなければならないはずである。ところが、ユング派の言う悪の自覚とは、自我そのものが悪を取り込んでしまうこと、言葉を換えて言えば、自我が悪に染まってしまうことなのである。それによって人間的成長が図られると考えているのである。しかし、これでは、マフィアになってしまう。ユング派の日本の第一人者が「ウソツキクラブの会長」を自任しているのも、いわれのないことではない。
倫理に反する悪事をなすことと心の平安とは、本来、人間においては両立しないはずのものである。罪悪感を抱いたままで、心の安らかさを得ることなどできるはずがないではないか。であるにもかかわらず、ユング派においてはその両者が両立しているかに見える。この点に関して筆者は長い間、奇異に感じていた。しかし、今、次のように結論づけることができるのではないか、と考えている。ユング派において達成される治癒とみなされている状態・心の境地とは、治癒ではなく人間性の喪失にすぎない。確かに傍らから見ると、落ち着いているようには見える。けれどもそれは、真の喜び・怒り・哀しみ・楽しみからはるかに遠く隔たったものである。何よりも悪事を働きながら罪悪感が欠如しているように見受けられるではないか。ユングは、人格の全体性を事あるごとに強調しながらも、罪悪感という人間にとって普遍的で重要な情動を完全に無視している。人格の全体性を云々しながら、人格の一面のみを強調しているにすぎない。ところで、罪悪感には二つの面があることに留意しておかなければならない。神経症的な罪悪感と人が感じるのがむしろ自然な罪悪感である。前者は、原因のはっきりしない罪悪感であって、例えば強迫的な行為として現われることがある。このような罪悪感は、やはり解消または緩和させておいたほうがよいであろう。それに対して、後者の罪悪感はどうだろうか。殺人者の夢枕に被害者が立ったり、街角で警察官を見かけた犯罪者が急にそわそわと落ち着かない素振りを見せて職務質問を受けることになったりすることになるとすれば、これは人が感じるのがむしろ自然な罪悪感ということができるのではないだろうか。このような自然な罪悪感が欠如した人間によって構成される社会こそ恐ろしい社会であるとも言える。それは、早い者勝ちの社会である。先に奪い、盗んだものが富を築き、先手を打って殺した者のみが生き残り、略奪や殺人をためらう者が滅びる社会である。このような社会が、やがてはそれ自身の内部から崩壊に向かうことは明らかである。ユングの主張する治癒によって、前者の神経症的な罪悪感というものが解消または緩和されるとすれば、それはそれとして結構なことである。しかしながら、それと同時に後者の人が感じるのがむしろ自然な罪悪感までも消失させてしまうとすればどうであろうか。そこにおいては、実に恐ろしい人間が出現してくることになる。平気で嘘をつき悪事を行う。他者を踏みつけにし、虐げても動じる気色もない。とにかく明るみにさえならなければ、好き勝手に悪事を働く。まさに人間性のある部分において欠損が生じてしまっている人間の出現である。ユンギアンにおいては、このように人間として感じることがむしろ自然な罪悪感さえも欠如しているかのように見えることは否めない。彼らの行っていることは、角を矯めて牛を殺す、つまり神経症的症状を癒そうとして、人間性そのものを破壊してしまうことである。そこで次のように断定せざるを得ない。ユング派の治癒をもたらすとされるセルフとは、ある程度の超越的性質を有しており、神に類似してはいる。しかし、それは神ではない。神が人の心の外部に存するのではなく内部のみに存するとするとき、また、神が人の心の外と内の両方に存するのではなく内にのみ存するとするとき、その神性なるものは悪性に転じるのである。悪性の神とは何か。それは、悪魔と呼ぶ以外になかろう。ユンギアンの心の平安とは、悪魔がもたらしてくれる平安、つまり悪魔の幸福なのである。
そうして、人間性の喪失の必然的な結果として、彼らは人と人との関係においても、非人間的な性質を示すことになる。あるユンギアンの面接場面で、厳しい父親を嘆くクライエントに対して冷淡な態度をとっていたカウンセラーが、「この人の冷厳な父の役割を知らずに演じていた」と言う④。ここでは、現実の生身の二人の人間の関係が完全に消失してしまっている。カウンセラーはクライエントの父親の霊を呼び出す巫女か寄坐になってしまっている。何者かによって機械的に操られているロボットか何かのような印象を受ける。そもそも彼らには人間関係というものは存在しない。日本のユング派の第一人者は、自身が作成に携わったとされている「心のノート」に関して市民団体が話し合いを申し入れても一切応じず、また、各種委員会のメンバーとして知り得た経過・情報等を他の関係者にも明らかにして共に考え、互いに議論しあって話を煮詰めていこうとする姿勢に欠けている。そのくせ、口先だけでは対話の重要性を強調したりするものだから、尚更始末が悪い。このような秘密主義は、彼の権威主義的な性格もさることながら、他者を人間として扱っていないことにもよる。自己自身が人間性を喪失しているのだから、他者を人間として扱うことができないのも無理からぬこととは言える。
それにしても彼らに出会ったとき、人は好印象を持ってしまうのは不思議である。そのために、権力に擦り寄る傾向のある彼らは次第に重要な地位に就いていく。ユング自身ナチス政権で重要な地位を占めていた。日本のユング派の第一人者も権力志向である。彼らに、暖かい人間との交流・他者とのコミュニケーションは存在しない。一見、他者と接触しているかに見える。しかしそれは、彼らが他者に貼り付けた自己の分身像とコミュニケートしているにすぎない。彼らにとっての他者とは自己の分身像であり、ここにおいて自己と他者との真の関係は失われ、代わって自己と自己との関係のみの世界となってしまう。こうして、生身の、人格を持った他者は消え失せ、自己の分身像を貼り付けた張りぼての人形ばかりが周囲に跳梁することとなる。それは、環境の消失、さらに現実世界からの逃避をも意味している。内的世界が外的な現実世界に取って代わってしまう。真実の環境を打ち壊し、それに代えて擬似環境を自分の周囲に作り上げる。あとは、その擬似環境に適合するように演技するだけである。彼らのやさしさ・謙虚さとはこのような演技にすぎないのである。
そもそも人間にとって、人間としての証は自我であるべきはずである。自我の喪失は、すなわち人間性の喪失である。ユング派においては、この自我が彼らの言う集合的無意識なるものの中に埋没してしまう。自我の弱い者が悪を否定しない、しかも人間性を失っている、だからこそ恐ろしいのである。
ユングの心理学に染まってしまうとき、人は例外なくある種の幸せな気分になるのではないだろうか。けれども、この思想の危険な落とし穴にもっと注意しておかなければならないだろう。それは決して人間の真の幸福ではない。現実の他者はどこかに消え失せ、代わって自己の分身像だけが己れの周囲に暗躍している世界で、自分ひとりだけで悦に入っている。このような心理学が、心理学界のみならず教育行政にも入り込み日本人全体に回復困難な重大な影響を及ぼそうとしている。将来の日本人は一体どうなってしまうのだろう。
注
① C.G.Jung: Die Beziehungen zwishen dem Ich und dem Unbewussten, Zurich, 1933. 野田倬訳 『自我と無意識の関係』 人文書院、1982、190頁。
② ガラテヤ人への手紙1・16
③ C.G.Jung: Die Beziehungen zwishen dem Ich und dem Unbewussten, Zurich, 1933. 野田倬訳 『自我と無意識の関係』 人文書院、1982、185頁。
④河合隼雄 『心理療法序説』 岩波書店、1992、218頁。
2005.7.9