直接交渉もできないやつら
文部科学省に、道徳の副教材「心のノート」を
廃止していただきたいと直接要望していた。国が
配ったり配らなかったりしているということは、教育
現場に途惑いを生じさせることであり、特にきちん
と取り扱わなくても結構ですよ、適当にやってくださ
い、全然やらなくても国は文句言いませんよ、とい
うメッセージを教育現場に送っていることになる。つ
まり、「心のノート」を配布することは国費の無駄
遣い以外の何ものでもない。だから、廃止してい
ただきたいと要望した。
ところが、やっぱり返事さえもない。国民が正式
に要望しているのに、聞く耳持たぬ、なのである。
何様のつもりでいるのか。このような文部科学大
臣(つまり、安部晋三内閣)、文部官僚は叩き潰
さねばならぬ。
そこで、次の手は会計検査院への要望である。
会計検査院に対し、国費の無駄遣いを文部科
学省が行っているから、会計検査を実施していた
だきたいと要望した。
さらに、2002年に「心のノート」が配布されて
以来、「心のノート」をきちんと取り扱わなかったこ
とが理由で処分された教員の方々は、しかるべき
ところに訴え出てください。文部科学省および教
育委員会は、処分する権限がなかったのです。こ
れは、権利の濫用になります。これは、「心のノー
ト」が配布されていた全期間が対象になります。「
心のノート」を国が配ったり配らなかったりしている
ということは、こんなものいい加減に取り扱っても文
句言いません、というメッセージを添えて配布して
いたのであり、それはすべての期間に及びます。
「心のノート」に関する要望と抱き合わせで、A
大学における詐欺事件について、調査して対処
していただきたいと改めて要望した。これは返事が
来た。文部科学省は、学校教育法等の法令違
反がない限り、口出しすることができないそうであ
る。本当にそうなのかなあ。
2013年12月28日土曜日
文部科学省へのメール(再掲)
(2013年8月に掲載したものを再掲した)
文部科学大臣殿
このメールを、文部科学大臣および副大臣に転送してください。
文部科学省は国立大学を管理していますが、国立大学ほどではないにせよ、私立大学についても、ある程度は管理しているのではないでしょうか。そこで、ある私立大学における犯罪行為について申し上げますので、きちんと対処していただきたい。
次に、私立A大学の学長に送付したメールをコピーします。
(以下、コピー)
文学部の二人の教授、O教授とK教授に掛け合っても埒が明かず、逆に口汚い言葉で罵倒される始末ですので、学長さんに直訴いたします。
私は、年月にA大学文学部国文学科を卒業しました。さらに、年月に、A大学大学院文学研究科修士課程(教育学専攻)に入学いたしました。しかし、大学院のほうは中途退学しています。中途退学した理由については、中国の入国管理局および大学に提出しました、推薦状を提出できない「理由書」を御参照ください。「理由書」は添付しているものです。推薦状は、中国の就労ビザを取得するための必要書類ですが、推薦状の作成を、O教授に拒否されました。そのため、やむをえず「理由書」を提出しました。
私は、中国の大学の常勤講師に招聘されています。推薦状を提出できないために、就労ビザの取得が危うくなったと思われましたが、それに代えて、推薦状を提出できない「理由書」を提出したことにより、就労ビザの手続きが進んでいる模様です。ですが、最終的にビザがおりるのかどうかは分かりません。
「理由書」に述べてありますように、事前に私には何も言わず、高額な授業料・入学金その他の必要経費を支払って大学院に入学してから、突然、ユング心理学などという心理学とは名ばかりの邪教・悪魔崇拝を強制しようというのは、まさに詐欺犯罪にほかなりません。そのために、中途退学せざるをえなくなったわけですから。O・K両教授に詐欺行為による損害の賠償を請求したところ、O教授からは、私のメールや手紙を「見るのさえ汚らわしい」と罵倒されました。「汚らわしい」という言葉は、大学教授にあるまじき幼稚な表現だと思います。人に向かってこのような言葉を使うことは、決して許されるものではありません。人格の未成熟さを感じさせる表現です。差別意識の片鱗さえも、うかがわせるものです。そこで、この「汚らわしい」という言葉を発したことに関しても、精神的苦痛を受けたことによる慰藉料を請求しています。大学院入学に関わる損害として100万円を、慰藉料としても100万円、合計200万円を両教授に請求しています。しかし、両教授は、私の請求に取り合う気配はありません。
どうか、お願いいたします。これでは、伝統あるA大学の恥になるのではないでしょうか。A大学とは、そのような低レベルの大学だったのか、ということになるでしょう。何卒よろしく善処していただけますようお願い申し上げます。
ユング心理学は、なぜ危険で恐ろしいのでしょうか。ユング心理学では、その個性化の最終段階において「マンダラ」(元型としての「自己」。Self)が夢の中に立ち現われてきたときに、すべてが一変します。ゆったりとした落ち着いた気分になり、心の病さえも治癒すると、ユング派では考えています。しかし、これはキリスト教における、神の恩寵による救済によく似ています。それでは、「マンダラ」は神なのでしょうか。C・G・Jungは、「マンダラ」を神として認めることを、断固として拒否しました(C・G・Jung著『自我と無意識の関係』)。そこで、私は主張し続けてきたのです。「マンダラ」は、確かに超越的な世界と関わりを持っている。それが神でないならば、悪魔であろう、と。実際に、ユング心理学においては、その個性化の初期段階において、元型としての「影」(自己の内なる悪なるもの)を同化しているのです。つまり、自我が悪を取り入れているのです。充分に、悪魔の資格があるではありませんか。ユング心理学で言う「治癒」とは、悪魔の恩寵による救済なのです。
(以上、コピー)
このような詐欺犯罪が行われたのは、文部科学省がユング心理学・ユング派を恰も「国教」であるかの如く、優遇しているからです。河合隼雄を文化庁長官に起用しました。最終任命権者は総理大臣か文部科学大臣でしょうが、総理大臣ならば小泉純一郎です。しかし、小泉は、判を押しただけです。新聞報道によると、河合が文化庁長官就任の挨拶に小泉を訪れたとき、ふたりは初対面であったそうだからです。文部科学大臣ならば、遠山敦子です。遠山は、文部官僚あがりの大臣です。つまり、河合を文化庁長官に起用したのは、文部科学省の役人でした。また、「心のノート」などという日本中の小学生・中学生に配布される道徳の副教材を考えだして、犯罪者・河合に作成を命じたのも文部科学省の役人です(河合が詐欺犯罪者であることについては、Webサイト『ユング心理学批判』を参照)。国家の教育行政を預かりながら、すさまじいばかりの愚行であると言わねばなりません。
私は、中国の大学の常勤講師に招聘されています。現在、就労ビザの手続き中です。手続きは順調に進んでいると聞いてはいますが、重大なハードルが待ち構えています。中国での就労ビザの発給は、駐日中国大使館で行われますが、犯罪者を優遇するような役人が幅を利かせている日本なんかには立ち寄りたくない、と中国側に申し述べました。だから、ビザの発給は、私が滞在している異国の中国大使館で行ってほしいと要望しました。当然、就労ビザの発給は困難になるでしょう。しかし、それも仕方がないと思いました。一時的にしろ、日本にいれば、犯罪者を優遇するような役人が何をしでかすか分からないと考えたからです。人をおとしめることしか念頭にない役人は、教育行政を担う資格がないのです。
しかし、憧れの中国。一度は、その地に立ってみたい。
初めのA大学における詐欺犯罪の話に戻りますが、いくら犯罪者を優遇するような役人とて、これくらいのことは、きちんとやってもらわなければ困ると存じます。
以上が、ある役所へのメールである。メールとメールが入れ子構造になっているので、注意していただきたい。また、中国の大学および入国管理局に提出した、推薦状を提出できないことの「理由書」は、以下のとおりである。
理由書
私が推薦状を提出できない理由について、下記の通り申し述べます。
私は、年月にA大学文学部国文学科を卒業しました。その在学中の指導教授がO教授でしたので、O教授に推薦状を執筆していただくのが適当であると考えた次第であります。
さらに私は、年月に、A大学大学院文学研究科修士課程(教育学専攻)に入学いたしました。私は当時、心理カウンセラー(臨床心理士)の職に就きたいと願っていたからであります。日本では、心理学専攻だけではなく、大学の教育学部や教育学専攻においても、臨床心理士の資格を取得することができます。A大学大学院文学研究科修士課程(教育学専攻)への入学につきましては、前述のO教授が、御自身は国文学が御専門ではありますが、推薦してくださいました。私が、「臨床心理士になりたい」と申しておりましたので、「それなら、うちの大学(A大学)の大学院に入学したらどうか」とO教授が勧められたのです。A大学大学院文学研究科修士課程(教育学専攻)での指導教授が、K教授でした。O教授とK教授とは親しい間柄ですので、O教授が私を推薦して下さることになったようです。
大学院文学研究科修士課程在学中に、不思議なことが起こりました。入学してから二・三箇月経過していました。ある日、指導教授のK教授が私を研究室に呼び、中国茶を淹れて私に振る舞ってくれながら、テーブルの上に置いてある一冊の書物を取り上げました。そして、その書物の表紙に書いてある著者の名前を指し示しながら、次のように言いました。
「今度この人を、(講演会の講師に)呼ぼうと思います。」
その本の著者の名前を見ると、「氏原寛」となっておりました。氏原寛は、ユング派(JungianつまりCarl
Gustav Jungが創始した臨床心理学の一派。Analytical
Psychology or Jungian
Psychology。)の臨床心理学者です。当時、大阪市立大学教授でした。ユング派では、第一人者である河合隼雄に次ぐ地位を占めていたと思います。ユング心理学につきましては、心理学としては間違っていると信じております。そして、彼らの狂信的な性格から、危険で恐ろしい心理学であると考えております。
K教授が氏原寛の著書を示しながら、氏原寛を講演会に呼ぶつもりだと私に告げた時、K教授は私にユング心理学を学ばせようとしていると理解しました。K教授は、ユング心理学に対して、好意的な態度を持っていることが分かりました。私には、ユング心理学を学ぶつもりなど全くありません。そこで、次のように答えました。
「ユング派ですか。ユング派なんか、何にもなりませんね。」
私の答えを聞くと、K教授は気分を害したようですが、それを自ら抑えるようにして次のように言いました。
「そうですね。ユング派は非科学的ですからね。でもね、私の女房は河合先生の弟子なのですよ。」
「河合先生」とは、当時、京都大学教授であり、後に文化庁長官に就任した河合隼雄のことです。日本のユング派の草分けであり、中心的存在でした。次々に出す著書は売れに売れて、ベストセラー作家も顔負けするほどでした。K教授の奥様が河合隼雄の弟子だからといって、どうして私がユング心理学を学ばなければならないのでしょうか。私が、ユング派なんか何にもならない、と答えたとき、K教授はムッとしたはずですが、やはり、それからは私は大学にいることができなくなりました。こうして私は、A大学大学院を退学せざるを得なくなりました。
私の大学院入学の前には、ユング心理学のことなど、おくびにも出さなかったK教授が、私が大学院に入学すると、いきなりユング心理学のことを持ち出し、ユング心理学を私に強要するのは奇妙なことだと感じました。私は、K教授とO教授が、共謀して私を罠に陥れたのではないかと考えました。二人の教授の背景には、ユング派がいるのでしょうか。ユング派は私を、仲間に引き入れようとしていたのでしょうか。
大学院を退学してから数年後に、私はA大学に出向き、O教授に面会して抗議いたしました。退学した直後は、挫折感と失望のために、抗議することすら思い浮かばなかったのです。ところがO教授は、最初からずっと、私の抗議には全く取り合わないという姿勢で終始していました。
私は発奮して、「(論文名)」(掲載雑誌名)を書き上げました。この論文は、ユング心理学を批判したものです。それから、また数年経過しまして、やはりA大学大学院で起きたことは詐欺だと考えるようになりました。私を騙して大学院に入学させ、ユング心理学を学ばせようとして、高額な入学金・授業料、A町とB町を何度も新幹線を利用して往復しなければならなかった交通費、引越代、住居を移すことによって必然的に生じる出費などの詐欺による損害の賠償を請求してもよいのではないかと考えるようになりました。
そこでO教授とK教授に対して、損害賠償請求を行いました。損害賠償を請求するのは、法律上も、人間としても当然の権利だと私は考えるのですが、O教授は激怒されました。さらに、今回私が依頼致しました推薦状についても、書くことはできないということでございました。
以上のような理由で、私は推薦状を提出することができなくなりました。
(固有名詞については、できる限り伏せることにした。)
八の矢(再掲)
(「敵は本能寺にあり」、「考える力を育てる」、「八の矢」は、一旦削除したものを再掲します)
八の矢
どうか安部晋三(Shinzo Abe)様、「心のノート」の予算を認めないでください、と丁寧にお願いしてもこの悪代官は「聞く耳持たぬ」だろうな。それならばだ、何としてもお前が一度は投げ出したその椅子から、引き摺り下ろしてやろうではないか。
そもそも、お前はその椅子に座る資格がないのである。それでさあ、お前が最初に総理大臣の椅子を放り出してからの何年間、一体どこで何をしていたのかい。これが、興味津々なのだけど。ちょっと教えてくれないかな。ええ?ひとり山にこもって、冷たい氷のような滝に打たれて?どうか今度ばかりは椅子を放り出したりしませんから、と荒行に励んでいたのかい?それとも誰かにマインドコントロールでも、されていたのかい?それで、日本中の子ども達や教員達を、「心のノート」でマインドコントロールしてやろうというのかい?
「心のノート」を配布させてはならない。こんなものに多額の税金を費やすのなら、その分、教育現場の国語科に有能な人材を配置することに振り向けよ。そのほうが、はるかに有意義である。考える力の育成に全力を尽くせ。
安部晋三とは、本当に個性のない男である。とにかく印象が薄い。いるのかいないのか分からない。それで、攻撃しようとしても、攻撃材料がなかなか見つからない。まさに親の悲劇・悔しさだけを追い風にして首相になったのである。
一度、取りやめていた「心のノート」を再び配布したら、教育現場は途惑うことに気がつかなかったのか。お前も、親しい小泉純一郎(Jun’ichiro Koizumi)同様、考える力というものをどこかに置き忘れているのだ。置き引きに遭っちゃうぞ。
教育現場が途惑えば、こんないんちき臭いもの、まともにやらなくてもよいらしい、第一、国が配ったり配らなかったりしている、つまり、適当にやりなさいよ、という暗黙のお達しだ、適当にやっても文句言いませんよ、というメッセージだ、と教育現場が受け取ることに気がつかなかったのだね。安部晋三君、君のものを考える力は大したものだ。ほとほと感心しましたなあ。
「こころのノート」を、きちんとやらない、適当にお茶を濁す、もしくは全然やらない、このような教員を処分しようとしたら承知しないぞ。叩き殺すぞ。
八の矢
どうか安部晋三(Shinzo Abe)様、「心のノート」の予算を認めないでください、と丁寧にお願いしてもこの悪代官は「聞く耳持たぬ」だろうな。それならばだ、何としてもお前が一度は投げ出したその椅子から、引き摺り下ろしてやろうではないか。
そもそも、お前はその椅子に座る資格がないのである。それでさあ、お前が最初に総理大臣の椅子を放り出してからの何年間、一体どこで何をしていたのかい。これが、興味津々なのだけど。ちょっと教えてくれないかな。ええ?ひとり山にこもって、冷たい氷のような滝に打たれて?どうか今度ばかりは椅子を放り出したりしませんから、と荒行に励んでいたのかい?それとも誰かにマインドコントロールでも、されていたのかい?それで、日本中の子ども達や教員達を、「心のノート」でマインドコントロールしてやろうというのかい?
「心のノート」を配布させてはならない。こんなものに多額の税金を費やすのなら、その分、教育現場の国語科に有能な人材を配置することに振り向けよ。そのほうが、はるかに有意義である。考える力の育成に全力を尽くせ。
安部晋三とは、本当に個性のない男である。とにかく印象が薄い。いるのかいないのか分からない。それで、攻撃しようとしても、攻撃材料がなかなか見つからない。まさに親の悲劇・悔しさだけを追い風にして首相になったのである。
一度、取りやめていた「心のノート」を再び配布したら、教育現場は途惑うことに気がつかなかったのか。お前も、親しい小泉純一郎(Jun’ichiro Koizumi)同様、考える力というものをどこかに置き忘れているのだ。置き引きに遭っちゃうぞ。
教育現場が途惑えば、こんないんちき臭いもの、まともにやらなくてもよいらしい、第一、国が配ったり配らなかったりしている、つまり、適当にやりなさいよ、という暗黙のお達しだ、適当にやっても文句言いませんよ、というメッセージだ、と教育現場が受け取ることに気がつかなかったのだね。安部晋三君、君のものを考える力は大したものだ。ほとほと感心しましたなあ。
「こころのノート」を、きちんとやらない、適当にお茶を濁す、もしくは全然やらない、このような教員を処分しようとしたら承知しないぞ。叩き殺すぞ。
(2013年12月19日付けで掲載していたものを、一旦削除した上で、再び掲載した。)
考える力を育てる(再掲)
青いフォントは新たに書き加えた。第5段落と第6段落の2箇所。
考える力を育てる
小泉純一郎(Junichiro Koizumi)は、歴代の総理大臣の中でも、人気度の高い首相であると言ってもよいだろう。小泉が首相であったとき、自身の年金問題について国会で追及されたことがあった。そのとき小泉は、次のように答弁した。
「人生いろいろ。会社もいろいろ。」
議場は大爆笑の渦に巻き込まれた。小泉の人気の秘密の一端を、垣間見せてくれる答弁である。これは、国会中継としてテレビやラジオで放送された。国会の議場は、真剣勝負の場であるはずである。われわれが通常、会議において発言するよりも、国会での発言は何十倍もの重い意味を持つものであるはずである。総理大臣が国会でふざけた発言をすることが許されるはずがない。「人生いろいろ。会社もいろいろ」とは、浜口庫之助が作詞作曲し、島倉千代子が歌って大ヒットした曲の歌詞をもじったものである。これが、一国の首相が国会で行う答弁か。あまりにも幼稚で情けないではないか。ものを考える力のない者が、総理大臣になっていたのである。しかも、人格の卑しさもよく表れている。歴代の日本の首相で比較的立派でまともな人物と思われる人を、2・3人思い浮かべてみるがいい。その首相は、人気があったか。僕が思い浮かべた首相は、人気がなかった。つまらぬ人物、過去に犯罪を犯したような人物、ものを考える力のない人物が、えてして人気者になることがある。僕が思い浮かべた立派でまともな首相は、人気はなかったけれども、小泉のような人をおちょくったようなことは言わない。あのとき、国会の議場で笑い転げた議員は、バッジをはずせ。選挙のとき、投票者はもっと真剣に候補者の人物を見極めないと大変なことになる。小泉や安部晋三(Shinzo Abe)のような、ふざけた首相が誕生してしまったではないか。しかも、この国民をおちょくる首相が、結構人気が高いとは、どういうことだろう。
子どもの遊び仲間の間では、剽軽な子に人気が集まるという傾向がある。小泉純一郎は、その首相版だ。あまりにも情けないのではないだろうか。こうして空っぽ頭の総理大臣が、日本を駄目にしていくことになった。小泉進次郎(Shinjiro Koizumi)とかいう小泉純一郎の息子が、次期首相候補に名を連ねているようだが、父親譲りの軽佻浮薄、空っぽ頭のふざけた人気者に、またまた日本の運命を委ねてしまうという愚挙を繰り返してはならない。
創価学会の池田大作(Daisaku Ikeda)は、収集が趣味である。収集と言っても、記念切手やコインではない。外国の勲章なのである。外国の勲章?それは立派ではないか、と考えてはいけない。外国のほうから贈呈しますと申し出てくれたのではない。貧しい信者から巻き上げた金でもって、勲章を買い漁っているのである。それで悦に入っている。実に幼稚な精神・思考力ではないか。子ども時代に既に、考える力の発達が停止してしまったのではないだろうか。不思議なのは、貧しい信者がどうして怒らないのかということである。
河合隼雄(Hayao Kawai)は、ある著書(「カウンセリングを語る」だったかもしれないし、別の題名だったかもしれない)で書いている。あるとき人から、「河合さんは、よく努力なさいますね」と言われた。それに対して河合は、「他にすることがないので、努力させてもらっている」と答えた。これを読んだ河合ファン、例えば、今までものを考えたことが一度もないような愚者の集まりである創価学会の会員は、「さすが、河合さんは言うことが違うなあ」と、ただただ敬服し、信仰の念を厚くしていたにちがいない。そりゃあ、言うことが常人と違うに決まっている。人間離れした、暖かい人間の血が通っていない、いわば化け物のようなものなのであるから。しかも、“日本ウソツキクラブ会長”を自任するという幼稚でふざけた野郎なのである。京都大学教授とは聞いてあきれる。考える力があるのか。河合俊雄(Toshio Kawai)といい、京都大学とは空っぽ頭の集まった最高学府か。
そもそも努力とは、暇つぶし、すさびごと、遊びごとでするものではない。やむにやまれぬ、それこそ執念のような情念に突き動かされて行うものである。河合隼雄が本当に努力していたのなら、「私は真剣です。この心理学を日本中に広めなければならないのです。そのために私は命を懸けています」とでも言ってみればよかったのだ。しかし言えまい。そのくせ、すさまじいばかりに狂信的になる。これはいったい、どうしたことか。
“Jungian”やユングファンは、例外なく狂信的・盲信的になる。そして人にストーカー的な行為をさえ行うのである。彼らの狂信や盲信が、いかに内実のない空虚なものであるかは明らかである。狂信的な、創価学会のような“cult”の信者と同じような心性なのである。A大学でユング派による詐欺犯罪の被害に遭ったが、あのとき実行犯であったK教授は、ユング心理学の話をするとき、頬の筋肉をはじめ顔中の筋肉が緩み、眦は下がり、ほちゃほちゃとして、まるで初孫を見るおじいさんのような顔になっていた。なんとなく好きなんですねえ、と河合隼雄のファンになっていった人も結構いるのではないだろうか。これは、“sentimental”にすぎない。“sentimental”な感情か情感というものは、極めて危険な面をもっている。この“sentimental”については、後に機会があれば述べることがあるかもしれない。このような、あやふやな情感か情動によって、理性的に考えるのではなく、多くの人が恐ろしいユングファンになっていった。第二次世界大戦前夜に、多くのドイツ国民が、ヒトラーに心酔し信奉したのとまったく同じではないか。ユング派は、スイスのチューリッヒにあるというユング研究所で、おどろおどろしい秘儀(秘密の儀式)に耽っているのである。ユング派の“分析”(分析と呼ぶこと自体、おかしい)は、とりも直さず秘儀と呼ぶしかない。来る日も来る日も薄暗い部屋にひとり閉じ籠って、壁に向かって何やら訳の分からないことを、ぶつぶつ呟いていて、それで精神が健全になるわけがないではないか(教祖のC・G・ユングの個性化)。河合隼雄が人から「よく努力しますね」と言われたときに、人を馬鹿にしたふざけた受け答えをしてしまったのは、きっぱりと、「私はこれに命を懸けています」ということができなかったのである。ユング心理学が、いかにいんちきな邪教であるか、ということである。ふざけたやつらだ。
大昔の人々は、生きていくために獲物をとる技術を磨かなければならなかっただろう。その技術を、弓矢の腕だとする。大昔の人々が、毎日、弓矢を射る練習をしていたかどうかは分からないが、とにかくその技術の向上は自分や家族、その属する共同体の死活問題であった。まさに命がかかっていたのである。この技術の向上は、河合のように暇つぶしで達成されるものではない。熱く燃え上がる炎のような情念によって成し遂げられるものである。河合隼雄も小泉純一郎同様、実にふざけた、人を馬鹿にした人物ではないか。(前に、大昔の弓矢の技術について、歴史学的・民族学的・民俗学的観点から見れば(民俗学は、ちょっと違ったかな)、僕の記述はおかしいという指摘を受けた。確かに間違っているかもしれない。しかし僕は、この箇所を削除するつもりはない。日本人は農耕民族である。獲物を求めて、弓矢などの武器を携えて山野を駆け巡っていた事実が大昔にあったかどうか、確かにわからない。だけど、この箇所の記述は、日本人の場合に限定しているわけでもない。たとえばヨーロッパ人の場合、弓矢の技術の向上は、それこそ“命を懸けて”努力をなされたのであろう。)
現代のわれわれにとって、大昔の人の弓矢を射る技術に相当するものは何であろうか。それは、考える力であろう。思考力の程度が、生きるか死ぬかに関わってくる場合もあるであろう。したがって、子どもを育てるときには、いかにして子どもが考える力を伸ばすのを援助するかが重要になってくる。
学校教育においては数学も大切であるが、それにもまして有効なのは国語(Japanese)の現代文である。ひとつの文章を丹念に読む。ゆっくりと何度も繰り返し読むことは、思考力を発達させる上で、王道だと思う。それは、もちろん良質な文章でなければならない。特に、ユング派やユングかぶれのした人の文章であってはならない。ユング派の思考法というものは、画一的で短絡的であるからである。そのくせ、何を言っているのかよく分からない。ユング派が基本におく立脚点自体が、あやふやなものだからである。従って、やつらの主張することは論理的ではない。感情でものを言っているからである。だから、何を言っているのか理解できない。読んでいると頭が痛くなってくる。こんなものを国語の教材に使ってはいけない。
質の高い文章を、真剣勝負のつもりで何度も何度も読んでいると、初めに見えなかったものが見えてくることがある。このときやっと、筆者が本当に言いたかったことをつかむことができたのである。考える力は、このようにして身についていくものと考えられる。速読術は役に立たない。より多くの知識を得るためだけならば、それも悪くはないかもしれないが、考える力をつけるためならば、速読しても無意味である。
学校教育においては、国語科の現代文の指導に優秀な人材を確保するように努めるべきだと思う。国語の指導者が考える力のない人だったら、子どもの考える力を伸ばすことは難しくなる。道徳教育を云々する前に、考える力の育成に努めるべきではないだろうか。「心のノート」を配布するよりも、国語科の充実に金をつぎ込んだほうが有益であろう。これを怠ると、人気者だが空っぽ頭の首相や国会議員が日本の進路を誤らせることになる。小泉純一郎や河合隼雄が人を馬鹿にしたふざけた発言をするのは、やつらの道徳性・倫理性がどうかということ以前に、やつらの頭の中が空っぽだからである。そのためには、第一に国語科の現代文、第二に数学科である。
考える力を育てる
小泉純一郎(Junichiro Koizumi)は、歴代の総理大臣の中でも、人気度の高い首相であると言ってもよいだろう。小泉が首相であったとき、自身の年金問題について国会で追及されたことがあった。そのとき小泉は、次のように答弁した。
「人生いろいろ。会社もいろいろ。」
議場は大爆笑の渦に巻き込まれた。小泉の人気の秘密の一端を、垣間見せてくれる答弁である。これは、国会中継としてテレビやラジオで放送された。国会の議場は、真剣勝負の場であるはずである。われわれが通常、会議において発言するよりも、国会での発言は何十倍もの重い意味を持つものであるはずである。総理大臣が国会でふざけた発言をすることが許されるはずがない。「人生いろいろ。会社もいろいろ」とは、浜口庫之助が作詞作曲し、島倉千代子が歌って大ヒットした曲の歌詞をもじったものである。これが、一国の首相が国会で行う答弁か。あまりにも幼稚で情けないではないか。ものを考える力のない者が、総理大臣になっていたのである。しかも、人格の卑しさもよく表れている。歴代の日本の首相で比較的立派でまともな人物と思われる人を、2・3人思い浮かべてみるがいい。その首相は、人気があったか。僕が思い浮かべた首相は、人気がなかった。つまらぬ人物、過去に犯罪を犯したような人物、ものを考える力のない人物が、えてして人気者になることがある。僕が思い浮かべた立派でまともな首相は、人気はなかったけれども、小泉のような人をおちょくったようなことは言わない。あのとき、国会の議場で笑い転げた議員は、バッジをはずせ。選挙のとき、投票者はもっと真剣に候補者の人物を見極めないと大変なことになる。小泉や安部晋三(Shinzo Abe)のような、ふざけた首相が誕生してしまったではないか。しかも、この国民をおちょくる首相が、結構人気が高いとは、どういうことだろう。
子どもの遊び仲間の間では、剽軽な子に人気が集まるという傾向がある。小泉純一郎は、その首相版だ。あまりにも情けないのではないだろうか。こうして空っぽ頭の総理大臣が、日本を駄目にしていくことになった。小泉進次郎(Shinjiro Koizumi)とかいう小泉純一郎の息子が、次期首相候補に名を連ねているようだが、父親譲りの軽佻浮薄、空っぽ頭のふざけた人気者に、またまた日本の運命を委ねてしまうという愚挙を繰り返してはならない。
創価学会の池田大作(Daisaku Ikeda)は、収集が趣味である。収集と言っても、記念切手やコインではない。外国の勲章なのである。外国の勲章?それは立派ではないか、と考えてはいけない。外国のほうから贈呈しますと申し出てくれたのではない。貧しい信者から巻き上げた金でもって、勲章を買い漁っているのである。それで悦に入っている。実に幼稚な精神・思考力ではないか。子ども時代に既に、考える力の発達が停止してしまったのではないだろうか。不思議なのは、貧しい信者がどうして怒らないのかということである。
河合隼雄(Hayao Kawai)は、ある著書(「カウンセリングを語る」だったかもしれないし、別の題名だったかもしれない)で書いている。あるとき人から、「河合さんは、よく努力なさいますね」と言われた。それに対して河合は、「他にすることがないので、努力させてもらっている」と答えた。これを読んだ河合ファン、例えば、今までものを考えたことが一度もないような愚者の集まりである創価学会の会員は、「さすが、河合さんは言うことが違うなあ」と、ただただ敬服し、信仰の念を厚くしていたにちがいない。そりゃあ、言うことが常人と違うに決まっている。人間離れした、暖かい人間の血が通っていない、いわば化け物のようなものなのであるから。しかも、“日本ウソツキクラブ会長”を自任するという幼稚でふざけた野郎なのである。京都大学教授とは聞いてあきれる。考える力があるのか。河合俊雄(Toshio Kawai)といい、京都大学とは空っぽ頭の集まった最高学府か。
そもそも努力とは、暇つぶし、すさびごと、遊びごとでするものではない。やむにやまれぬ、それこそ執念のような情念に突き動かされて行うものである。河合隼雄が本当に努力していたのなら、「私は真剣です。この心理学を日本中に広めなければならないのです。そのために私は命を懸けています」とでも言ってみればよかったのだ。しかし言えまい。そのくせ、すさまじいばかりに狂信的になる。これはいったい、どうしたことか。
“Jungian”やユングファンは、例外なく狂信的・盲信的になる。そして人にストーカー的な行為をさえ行うのである。彼らの狂信や盲信が、いかに内実のない空虚なものであるかは明らかである。狂信的な、創価学会のような“cult”の信者と同じような心性なのである。A大学でユング派による詐欺犯罪の被害に遭ったが、あのとき実行犯であったK教授は、ユング心理学の話をするとき、頬の筋肉をはじめ顔中の筋肉が緩み、眦は下がり、ほちゃほちゃとして、まるで初孫を見るおじいさんのような顔になっていた。なんとなく好きなんですねえ、と河合隼雄のファンになっていった人も結構いるのではないだろうか。これは、“sentimental”にすぎない。“sentimental”な感情か情感というものは、極めて危険な面をもっている。この“sentimental”については、後に機会があれば述べることがあるかもしれない。このような、あやふやな情感か情動によって、理性的に考えるのではなく、多くの人が恐ろしいユングファンになっていった。第二次世界大戦前夜に、多くのドイツ国民が、ヒトラーに心酔し信奉したのとまったく同じではないか。ユング派は、スイスのチューリッヒにあるというユング研究所で、おどろおどろしい秘儀(秘密の儀式)に耽っているのである。ユング派の“分析”(分析と呼ぶこと自体、おかしい)は、とりも直さず秘儀と呼ぶしかない。来る日も来る日も薄暗い部屋にひとり閉じ籠って、壁に向かって何やら訳の分からないことを、ぶつぶつ呟いていて、それで精神が健全になるわけがないではないか(教祖のC・G・ユングの個性化)。河合隼雄が人から「よく努力しますね」と言われたときに、人を馬鹿にしたふざけた受け答えをしてしまったのは、きっぱりと、「私はこれに命を懸けています」ということができなかったのである。ユング心理学が、いかにいんちきな邪教であるか、ということである。ふざけたやつらだ。
大昔の人々は、生きていくために獲物をとる技術を磨かなければならなかっただろう。その技術を、弓矢の腕だとする。大昔の人々が、毎日、弓矢を射る練習をしていたかどうかは分からないが、とにかくその技術の向上は自分や家族、その属する共同体の死活問題であった。まさに命がかかっていたのである。この技術の向上は、河合のように暇つぶしで達成されるものではない。熱く燃え上がる炎のような情念によって成し遂げられるものである。河合隼雄も小泉純一郎同様、実にふざけた、人を馬鹿にした人物ではないか。(前に、大昔の弓矢の技術について、歴史学的・民族学的・民俗学的観点から見れば(民俗学は、ちょっと違ったかな)、僕の記述はおかしいという指摘を受けた。確かに間違っているかもしれない。しかし僕は、この箇所を削除するつもりはない。日本人は農耕民族である。獲物を求めて、弓矢などの武器を携えて山野を駆け巡っていた事実が大昔にあったかどうか、確かにわからない。だけど、この箇所の記述は、日本人の場合に限定しているわけでもない。たとえばヨーロッパ人の場合、弓矢の技術の向上は、それこそ“命を懸けて”努力をなされたのであろう。)
現代のわれわれにとって、大昔の人の弓矢を射る技術に相当するものは何であろうか。それは、考える力であろう。思考力の程度が、生きるか死ぬかに関わってくる場合もあるであろう。したがって、子どもを育てるときには、いかにして子どもが考える力を伸ばすのを援助するかが重要になってくる。
学校教育においては数学も大切であるが、それにもまして有効なのは国語(Japanese)の現代文である。ひとつの文章を丹念に読む。ゆっくりと何度も繰り返し読むことは、思考力を発達させる上で、王道だと思う。それは、もちろん良質な文章でなければならない。特に、ユング派やユングかぶれのした人の文章であってはならない。ユング派の思考法というものは、画一的で短絡的であるからである。そのくせ、何を言っているのかよく分からない。ユング派が基本におく立脚点自体が、あやふやなものだからである。従って、やつらの主張することは論理的ではない。感情でものを言っているからである。だから、何を言っているのか理解できない。読んでいると頭が痛くなってくる。こんなものを国語の教材に使ってはいけない。
質の高い文章を、真剣勝負のつもりで何度も何度も読んでいると、初めに見えなかったものが見えてくることがある。このときやっと、筆者が本当に言いたかったことをつかむことができたのである。考える力は、このようにして身についていくものと考えられる。速読術は役に立たない。より多くの知識を得るためだけならば、それも悪くはないかもしれないが、考える力をつけるためならば、速読しても無意味である。
学校教育においては、国語科の現代文の指導に優秀な人材を確保するように努めるべきだと思う。国語の指導者が考える力のない人だったら、子どもの考える力を伸ばすことは難しくなる。道徳教育を云々する前に、考える力の育成に努めるべきではないだろうか。「心のノート」を配布するよりも、国語科の充実に金をつぎ込んだほうが有益であろう。これを怠ると、人気者だが空っぽ頭の首相や国会議員が日本の進路を誤らせることになる。小泉純一郎や河合隼雄が人を馬鹿にしたふざけた発言をするのは、やつらの道徳性・倫理性がどうかということ以前に、やつらの頭の中が空っぽだからである。そのためには、第一に国語科の現代文、第二に数学科である。
(2013年12月18日付けで掲載していたものを、一旦削除した上で、再び掲載した。)
敵は本能寺にあり(再掲)
(「敵は本能寺にあり」、「考える力を育てる」、「八の矢」は、一旦削除したものを再掲します)
敵は本能寺にあり
道徳の副教材「心のノート」は、日本の小学生・中学生全員に、多額の税金を使って配布されている。「心のノート」は、その作られた意図とは逆に、子ども達の心の成長を阻害するものである。
「心のノート」の背景にあるのは心理学である。初めて作成したのが、当時文化庁長官であった河合隼雄であった。河合隼雄は、日本のユング派心理学の草分けであり、中心的人物であった。だから、「心のノート」の背景にある心理学とは、ユング心理学であることは明らかである。河合隼雄は、実は犯罪者なのである。若い頃に二度、詐欺事件を起こしていた。犯罪者に道徳の副教材「心のノート」を作成させる。しかも、日本の子ども全員に配布する。なんと奇妙なことではないか。
また「心のノート」は、国家レベルの非常に大規模なカウンセリング(=マインドコントロール)を日本の子ども全員を対象に実施しているものと言えよう。その手足になっているのが、小中学校の教員である。その過程においては、小中学校の教員も、この大規模なカウンセリング(=マインドコントロール)の対象となっているだろう。気に食わない教員を見つけるための物差しにもなるだろう。
相も変わらず、多額の税金を使って「心のノート」を配布しているのは、まさに愚挙ではないか。しかも、「心のノート」は子ども達を痛めつけるだけであるし、心の成長を妨げるものなのである。このような馬鹿げたことは、やめさせなければならない。
やめさせるためには、どうすればよいだろうか。文部科学省を批判するだけでは駄目なのかもしれない。むしろ、安部晋三内閣を動かさなければならないのではないだろうか。安部内閣は、「心のノート」を廃止する心づもりがあると、皆さんは考えますか?たぶん廃止するつもりは、ないでしょうね。そうすると、どうしても安部内閣を倒さなければならないということになりますね。今年中か来年の初めまでには。そのためには、どうすればよいでしょうか。
敵は本能寺にあり
道徳の副教材「心のノート」は、日本の小学生・中学生全員に、多額の税金を使って配布されている。「心のノート」は、その作られた意図とは逆に、子ども達の心の成長を阻害するものである。
「心のノート」の背景にあるのは心理学である。初めて作成したのが、当時文化庁長官であった河合隼雄であった。河合隼雄は、日本のユング派心理学の草分けであり、中心的人物であった。だから、「心のノート」の背景にある心理学とは、ユング心理学であることは明らかである。河合隼雄は、実は犯罪者なのである。若い頃に二度、詐欺事件を起こしていた。犯罪者に道徳の副教材「心のノート」を作成させる。しかも、日本の子ども全員に配布する。なんと奇妙なことではないか。
また「心のノート」は、国家レベルの非常に大規模なカウンセリング(=マインドコントロール)を日本の子ども全員を対象に実施しているものと言えよう。その手足になっているのが、小中学校の教員である。その過程においては、小中学校の教員も、この大規模なカウンセリング(=マインドコントロール)の対象となっているだろう。気に食わない教員を見つけるための物差しにもなるだろう。
相も変わらず、多額の税金を使って「心のノート」を配布しているのは、まさに愚挙ではないか。しかも、「心のノート」は子ども達を痛めつけるだけであるし、心の成長を妨げるものなのである。このような馬鹿げたことは、やめさせなければならない。
やめさせるためには、どうすればよいだろうか。文部科学省を批判するだけでは駄目なのかもしれない。むしろ、安部晋三内閣を動かさなければならないのではないだろうか。安部内閣は、「心のノート」を廃止する心づもりがあると、皆さんは考えますか?たぶん廃止するつもりは、ないでしょうね。そうすると、どうしても安部内閣を倒さなければならないということになりますね。今年中か来年の初めまでには。そのためには、どうすればよいでしょうか。
(2013年12月17日付けで掲載していたものを、一旦削除した上で、再び掲載した。)
2013年12月27日金曜日
まなざし
(このサイトについては、古いほうから順に読んでい
ただいたほうがよろしいかと思います。)
まなざし
最近ニュースになったことだから、覚えている人も
たくさんいると思う。ローマ法王フランシスコ1世の
逸話である。フランシスコ1世が、難病のために差
別を受け続けてきた男性を抱きしめた話である。
そのとき男性の傍にいた身内の人は、「法王は何
も言わず、ただ心の奥深くまで届くような、それは
美しいまなざしで私の方を見た」(CNN)と、話している。
僕もこのような「まなざし」に、一度だけ出会った
ことがある。まだ若かった頃のことである。その人は
、牧師でも僧侶でもなかった。この「まなざし」は、
その後、僕の心をいつもポカポカと温めてくれる目
に見えない懐炉のようになった。
「那須与一、将に射むとす」(http://moriyamag.blogspot.fr/2013/10/blog-post_18.html)
の河合隼雄のウソツキ退職の項の末尾で、「日
本の小・中・高の教員たちは、生徒が転んだとき
、手を差し伸べようとする。それが、全人格的なも
のであるとき、自分の持っているものすべてを賭し
たものであるとき、そしてそれが生徒の心に伝わっ
たとき、大抵の生徒は自ら起き上がろうとする」の
中で、「それが、全人格的なものであるとき、自分
の持っているものすべてを賭したものであるとき」と
あるのは、このような「まなざし」を、脳裏に思い浮
かべていたかもしれない。しかし、それではあまりに
も荷が勝ちすぎていよう。平たく言えば、こういうこ
となのである。ひとりの人間が心配している、この
気持ちが相手の心に伝わりさえすればよいのであ
る。
ただいたほうがよろしいかと思います。)
まなざし
最近ニュースになったことだから、覚えている人も
たくさんいると思う。ローマ法王フランシスコ1世の
逸話である。フランシスコ1世が、難病のために差
別を受け続けてきた男性を抱きしめた話である。
そのとき男性の傍にいた身内の人は、「法王は何
も言わず、ただ心の奥深くまで届くような、それは
美しいまなざしで私の方を見た」(CNN)と、話している。
僕もこのような「まなざし」に、一度だけ出会った
ことがある。まだ若かった頃のことである。その人は
、牧師でも僧侶でもなかった。この「まなざし」は、
その後、僕の心をいつもポカポカと温めてくれる目
に見えない懐炉のようになった。
「那須与一、将に射むとす」(http://moriyamag.blogspot.fr/2013/10/blog-post_18.html)
の河合隼雄のウソツキ退職の項の末尾で、「日
本の小・中・高の教員たちは、生徒が転んだとき
、手を差し伸べようとする。それが、全人格的なも
のであるとき、自分の持っているものすべてを賭し
たものであるとき、そしてそれが生徒の心に伝わっ
たとき、大抵の生徒は自ら起き上がろうとする」の
中で、「それが、全人格的なものであるとき、自分
の持っているものすべてを賭したものであるとき」と
あるのは、このような「まなざし」を、脳裏に思い浮
かべていたかもしれない。しかし、それではあまりに
も荷が勝ちすぎていよう。平たく言えば、こういうこ
となのである。ひとりの人間が心配している、この
気持ちが相手の心に伝わりさえすればよいのであ
る。
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